中山宿(読み)なかやましゆく

日本歴史地名大系 「中山宿」の解説

中山宿
なかやましゆく

[現在地名]鳴子町 川端

鳴子村内にある中山越出羽道の宿駅で、東の尿前しとまえ宿から一里一五町、西の新庄藩領出羽国小国境田おぐにさかいだ(現山形県最上郡最上町)まで一里余。同街道玉造郡五駅のなかで最も西端に位置する。宿の成立は他の四駅よりも遅く、「鳴子村安永風土記」などによれば、寛永年間(一六二四―四四)仙台藩はそれまで人家もまばらだった中山平なかやまだいらに藩境警備・交通運輸上の目的から宿駅を設定することを計画。中山を住居とする者は罪状を免除する旨の制札を中山に立てて居住人を募り、六軒の百姓が取立てられた。その後、宿周辺の焼石亦やきいしまた星沼ほしぬまじんもり西原にしはら新田を開発、南原みなみはらまで引水をするため、東遠鈴沢とおすずさわより長さ七三二間、幅三尺余、高さ六尺の穴堰を寛永一八年頃より万治二年(一六五九)まで一九年間を要して完成させるなどして、伝馬人夫も確保できるようになって中山宿が置かれる。


中山宿
なかやましゆく

[現在地名]高山村中山

三国街道上の宿で、高崎宿から第六番目、横堀よこぼり宿(北群馬郡子持村)の次にあたり、以後塚原つかばら(現利根郡月夜野町)布施ふせ須川すかわ(現同郡新治村)と続く。中山村内でほん宿と新田しんでん宿の道が巴字構えに通る。慶長一七年(一六一二)町立てし、丹波・和泉両家が問屋として月に一五日ずつ業務を行うことになった。丹波家は中世には平形丹波と称したが、中山城落城後土着したと伝える。和泉家も同一族である。寛永一三年(一六三六)に至り平形丹後の子作右衛門は分宿し、本宿の西に宿をたて新田宿として正保年中(一六四四―四八)より問屋を開いたため、三家による問屋業務の分担は一日から一〇日までが本宿郷左衛門(平形丹波家)、一一日から一七日までが新田宿作右衛門、一八日から晦日までが本宿徳右衛門(平形和泉家)となった(平形文書)


中山宿
なかやまじゆく

[現在地名]千代田町中山 市

近世、石見浜田路の宿駅で、石見国浜田藩領に最も近く、通過荷物の改所を兼ねた。宿駅施設は本陣一軒(湯殿・雪隠・大手とも)、本陣付厩一軒、伝馬一五頭、問屋五軒、うち御用荷物引請一、石州出入商人荷札引請四であった(国郡志下調書出帳)

「済美録」によれば寛永一三年(一六三六)六月、広島藩は中山宿からの駄賃を本地ほんじ宿まで四八文、出羽いずわ(現島根県邑智郡瑞穂町)まで六六文、市木いちぎ宿(同)まで六六文と定め、「右壱駄荷米納六斗目、乗掛之付荷弐斗目、若先之馬差合候ハヽ定之駄賃取、一次通し可申候、此旨於相背馬主之儀不申及、庄屋・月行事共ニ曲言ニ可被仰付者也」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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