中山文七(読み)なかやまぶんしち

改訂新版 世界大百科事典 「中山文七」の意味・わかりやすい解説

中山文七 (なかやまぶんしち)

歌舞伎俳優。4世まである。(1)初世(1732-1813・享保17-文化10) 狂言作者松屋来助の次男。初世中村新九郎の養子。1748年(寛延1)に文七と改名。実事と所作が得意で,上方において活躍した。(2)2世(1755-98・宝暦5-寛政10) 1793年(寛政5)文七を襲名やつし方が得意だったが,かたわら油商を営んで〈鬢付屋文七〉と呼ばれた。(3)3世(1764-1853・明和1-嘉永6) 1804年(文化1)文七を襲名。和実を兼ねた。(4)4世 生没年不詳。1850年(嘉永3)文七を襲名。
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朝日日本歴史人物事典 「中山文七」の解説

中山文七(2代)

没年:寛政10.2.19(1798.4.4)
生年:宝暦5(1755)
江戸中期の歌舞伎役者俳名由男。屋号和泉屋。並木正三の甥という。初名伊八で子供芝居修業。23歳の冬上京し嵐猪八の名で大歌舞伎に出,2代目中山新九郎の養子となる。2代目来助を経て,寛政5(1793)年,39歳で2代目文七を襲名した。小柄ながら美貌,初代小川吉太郎風の和事で女性に人気があった。持ち味にピンとした強みがあり,世人は彼の演じる和事を「ピントコナ」と呼んだ。「鐘鳴今朝噂」(「いろは新助」)の新助,「伊勢音頭恋寝刃」の貢,今に残る「宿無団七時雨傘」の茂兵衛等の初演者。「心中重井筒」の徳兵衛の羽織落としの人気は語り草となった。晩年油店を開いたので「鬢付屋」の異名がある。なお文七の名跡幕末まで5代を数えた。

(青木繁)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中山文七」の解説

中山文七(3代) なかやま-ぶんしち

1764-1853 江戸時代中期-後期の歌舞伎役者。
明和元年生まれ。初代中山文七の門弟。京坂で活躍し,文化元年江戸にいき3代を襲名。大坂にかえり,6年中山百花と改名。のち文七にもどし,嘉永(かえい)3年ふたたび百花とした。和実をかね,晩年は老女役をよくした。嘉永(かえい)6年2月15日死去。90歳。京都出身。前名は中山兵太郎。俳名は百花。屋号は紅屋,鬢付屋(びんつけや)。

中山文七(2代) なかやま-ぶんしち

1755-1798 江戸時代中期-後期の歌舞伎役者。
宝暦5年生まれ。沢村太吉の門から初代嵐雛助に入門。初代中山来助(らいすけ)の養子となり,天明2年2代中山来助を,寛政5年2代文七を襲名。俏方(やつしがた)の名手として評判をえた。寛政10年2月19日死去。44歳。京都出身。初名は沢村伊八。前名は嵐猪八。俳名は至生,舎柳,由男。屋号は三扇屋,鬢付屋(びんつけや)。

中山文七(初代) なかやま-ぶんしち

1732-1813 江戸時代中期の歌舞伎役者。
享保(きょうほう)17年生まれ。松屋来助(らいすけ)の次男。初代中山新九郎の養子。寛延元年文七を名のる。大柄で色白,実事と所作事を得意とし上方で活躍した。天明2年引退。文化10年7月22日(一説に9月6日)死去。82歳。初名は中山与三郎。前名は和歌山文七。俳名は由男。屋号は和泉屋。

中山文七(4代) なかやま-ぶんしち

?-? 江戸後期-明治時代の歌舞伎役者。
3代中山文七の門弟。大坂で修業し,嘉永(かえい)3年4代文七を襲名。和事(わごと)を得意とし,実事(じつごと)をかねたが,眼病のため舞台からしりぞいた。初名は中村千太郎。前名は中山甚吉。俳名は甚車。屋号は鬢付屋(びんつけや)。

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