日本歴史地名大系 「丸之内」の解説
丸之内
まるのうち
丸之内
まるのうち
外堀に囲まれた郭内のうち内堀内を除く広い地域をさす。公室年譜略(国訳聿修録)に「南北に城門を開き、三間梁二十一間の楼門を造り、北を京口とし南を中島口とす、西に一口を開きて長さ十二間の楼門を造り伊賀口と名付け、是までの東西口を塞ぐ、此の廓内の沢沼を埋め内堀を深く広くして、是に諸士の邸宅を割る、今これを丸之内と称す」とあり、城普請を指示した藤堂高虎の書状(津市史)にも「丸之内の家共」とあり「丸之内」は築城当初よりの称である。
寛永期(一六二四―四四)の城下図(多羅尾家蔵)などによれば、江戸前期の丸之内には蔵屋敷・下台所・上厩などが並び、五千石の城代家老藤堂仁右衛門、四千石の藤堂主膳、四千五〇〇石の佐伯権之助、三千石の藤堂右京、三千石の藤堂勘解由、二千石の藤堂主殿、二千石の藤堂兵庫、二千石の横浜内記などのほか、千石取の上士が二〇人余り配置されていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報