丸之内(読み)まるのうち

日本歴史地名大系 「丸之内」の解説

丸之内
まるのうち

[現在地名]宇和島市丸之内一―五丁目

宇和島城の城郭内、堀の内の部分で、上士層の家屋のあった所をいう。小字に堀の内ほりのうちさんまる豊後橋ぶんごばし御浜おはま山里屋敷やまざとやしき馬場裾ばばすそ桝形ますがた御馬屋おんまやなどの地名がある。豊後橋は搦手門入口の橋名で、藤堂高虎の家臣佐伯豊後が架設したものである。山里屋敷は藩主別荘で、避難屋敷であったといわれる。三の丸は文久三年(一八六三)にとりこわされ、練兵場になった。


丸之内
まるのうち

[現在地名]津市丸之内・東丸之内ひがしまるのうち大門だいもん中央ちゆうおう丸之内養正まるのうちようせい町・西丸之内にしまるのうち

外堀に囲まれた郭内のうち内堀内を除く広い地域をさす。公室年譜略(国訳聿修録)に「南北に城門を開き、三間梁二十一間の楼門を造り、北を京口とし南を中島口とす、西に一口を開きて長さ十二間の楼門を造り伊賀口と名付け、是までの東西口を塞ぐ、此の廓内の沢沼を埋め内堀を深く広くして、是に諸士の邸宅を割る、今これを丸之内と称す」とあり、城普請を指示した藤堂高虎の書状(津市史)にも「丸之内の家共」とあり「丸之内」は築城当初よりの称である。

寛永期(一六二四―四四)の城下図(多羅尾家蔵)などによれば、江戸前期の丸之内には蔵屋敷・下台所・上厩などが並び、五千石の城代家老藤堂仁右衛門、四千石の藤堂主膳、四千五〇〇石の佐伯権之助、三千石の藤堂右京、三千石の藤堂勘解由、二千石の藤堂主殿、二千石の藤堂兵庫、二千石の横浜内記などのほか、千石取の上士が二〇人余り配置されていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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