日本歴史地名大系 「久次村」の解説
久次村
ひさつぎむら
丹後国田数帳に「久次保 九町四段百十二歩此内二町九段二百七十歩嘉吉三永不 千福殿様」とみえ、慶長検地郷村帳に「久次村」とでる。峯山藩領。峯山明細記によれば高四三二・八四石、反歩四〇町八反六畝二七歩(田三七町五反八畝二七歩、畑三町二反八畝)。戸口は七二軒、三二九人(男一六五人、女一六四人)。
天明六年(一七八六)村の中西瀬右衛門の田地が洪水で流失、峯山藩は国役と称して領内全般から人夫を徴発、復旧に当たったという。
久次村
ひさつぎむら
天正一六年(一五八八)の殖田郷久次村地検帳によると、一五四筆で総地積一九町二反二二代。屋敷は三三筆あり、うち居屋敷一七筆。うち一筆は「久次ノ土居」として「三方ハ二重堀前ハ一重堀也」とある四一代一歩半の地で、豊永源三郎給とある。この土居の東溝之内には宇佐八幡宮と馬場が記され、ともに現在も残る。付近の屋敷には「四方ヤフ」「西ハ土根」「四方土子」などの記載があり、おそらく北山から吹下ろす風に備えた土塁や藪が築かれていたものと考えられる。
久次村
ひさつぎむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報