久谷村(読み)くたにむら

日本歴史地名大系 「久谷村」の解説

久谷村
くたにむら

[現在地名]浜坂町久谷

対田たいた村の東にあり、久斗くと川支流久谷川の流域を占める。ももうずき峠を境に東は美含みくみ余部あまるべ(現香住町)南西高末たかすえ村など。豊岡城下から美含郡香住かすみ(現香住町)を経由してももうずき峠を越え当地に入り、福富ふくどめ村・居組いぐみ村を経て因幡国に至る往来が通っていた。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」に「くたに」とみえ、当地には下野殿・源衛門殿などが住していた。清富相応峰きよどめそうおうみね寺の過去帳の永禄九年(一五六六)分には「久谷ノ源衛門ノ子息中将快慶」の名がみえる。

慶長六年(一六〇一)因幡国若桜藩領、同一〇年頃に旗本宮城領となり、寛永二〇年(一六四三)宮城氏が無嗣断絶となったため幕府領に転じ、寛文八年(一六六八)豊岡藩領となる。享保一一年(一七二六)同藩主京極高寛が没し、世嗣がなく同家は絶家、同藩領三万五千石はいったん収公された。しかし同年弟京極高永に改めて一万五千石が与えられ、翌一二年に豊岡藩領の村付が決定すると再び同藩領となった。


久谷村
くたにむら

[現在地名]松山市久谷町くたにまち

現松山市の最南端に位置する山村。村のほぼ中央を久谷川が流れ、川沿いに狭小な平地がある。そのほかは四国山地に続く山間地である。南方に黒森くろもり(一一五四・二メートル)がそびえ、その北東に三坂みさか(七二〇メートル)があって現国道三三号により現高知市に通ずる。東は窪野くぼの村、西は岩谷口いわやぐち村・大平おおひら村・川登かわのぼり(現伊予郡砥部町)、南は西明神にしみようじん(現上浮穴郡久万町)、北は浄瑠璃寺じようるりじ村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)浮穴うけな郡の項に「久谷村 日損所、柴山有、野山有」とある。


久谷村
くたにむら

[現在地名]日野町福長ふくなが

東流する日野川左岸の山峡に位置し、村内を南北に法勝寺ほつしようじ往来が通る。北は同往来で菅沢すげさわ(現日南町)に至り、南西は漆原うるしばら村、南東は楢原ならばら村。正保国絵図に村名はみえないが、印賀原いんがはら村の支村とみられていたようで、元禄一四年(一七〇一)当村は漆原村とともに印賀原村に合併(藩史)。弘化五年(一八四八)二月、村名を吉延よしのぶ村と改称することを願出て、領内限りで唱えることを許された(在方諸事控)。印賀原村の支村とみられていたようで、享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」に久谷村とみえ高三〇石余。本免は五ツ三分。福田氏の給地であった(給人所付帳)


久谷村
くたにむら

[現在地名]飯高町もり

家野いえの村の南、はちす川の左岸にある。明治二年(一八六九)大指出帳(徳川林政史蔵)によれば家数八、人数二九、産物煎茶串柿芋茎が記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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