日本歴史地名大系 「久谷村」の解説
久谷村
くたにむら
慶長六年(一六〇一)因幡国若桜藩領、同一〇年頃に旗本宮城領となり、寛永二〇年(一六四三)宮城氏が無嗣断絶となったため幕府領に転じ、寛文八年(一六六八)豊岡藩領となる。享保一一年(一七二六)同藩主京極高寛が没し、世嗣がなく同家は絶家、同藩領三万五千石はいったん収公された。しかし同年弟京極高永に改めて一万五千石が与えられ、翌一二年に豊岡藩領の村付が決定すると再び同藩領となった。
久谷村
くたにむら
現松山市の最南端に位置する山村。村のほぼ中央を久谷川が流れ、川沿いに狭小な平地がある。そのほかは四国山地に続く山間地である。南方に
久谷村
くたにむら
久谷村
くたにむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報