漆原村
うるしばらむら
[現在地名]吉岡村漆原
利根川右岸に位置し、村域の大部分が同川の沖積地である。西は佐渡奉行街道をもって大久保村、南は当村で取水する天狗岩用水堰で植野村(現前橋市)、北は滝沢川で半田村(現渋川市)とそれぞれ境を接する。永仁四年(一二九六)一二月一八日の関東下知状(案、岩松文書)で藤原兼郷は、祖父漆原兼敦の文永一〇年(一二七三)の譲状などにより「上野国漆原村内屋敷・名田・在家」などの領知を認められている。文明九年(一四七七)一二月には上杉顕定・上杉定正・長尾忠景らと足利成氏・長尾景春らの戦いで、顕定勢は当地へ出陣している(「太田道灌状」島原市教育委員会蔵など)。下って永禄一〇年(一五六七)三月二八日の武田信玄判物(漆原文書)で「漆原之地」が原孫次郎に与えられている。
漆原村
しつぱらむら
[現在地名]日野町本郷
東流する日野川右岸の段丘上に位置し、村内を日野往来の右岸路が通る。東は根雨宿、日野川対岸の北東は野田村、北西は津地村。根雨宿との境の山腹に六角形柱状玄武岩が露出し、この柱状絶壁を水がしみ出て流れる時これを重箱滝といって愛でた(日野郡史)。「伯耆志」に当村と西の渡村を下渡、榎市・別所・小原の三ヵ村を上渡(奥渡)と称したとあり、五ヵ村は渡郷と総称される。
漆原村
うるしはらむら
[現在地名]鰺ヶ沢町南金沢町
東は赤石川、北は金沢村、南は種里村に接する。
正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の鼻和郡の新田に漆原村高一一二・七八石とある。同年の津軽郡之絵図に「
原村」とある。その後村名は星田村となり、貞享四年(一六八七)の検地帳には、目内崎村の支村星田村とあり、村高一七三・一九一石、うち田方一六二・二一七石、畑方一〇・九七四石とある。
漆原村
うるしはらむら
[現在地名]福井市漆原町
九頭竜川北岸に位置し、東は坂井郡の上安田・磯部福庄の両村(現丸岡町)。慶長六年(一六〇一)九月九日付結城秀康知行宛行状(山川家文書)に、丸岡領として村名がみえ、五〇一・五九石とあるが、同一一年頃の越前国絵図では「川合上之郷」に含まれていると思われる。福井藩領。
正保郷帳では吉田郡漆原村と坂北郡漆原新保村に分れる。この漆原新保村は東の磯部福庄村に突出した地であったらしい(森田町誌)。
漆原村
うるしはらむら
[現在地名]鶴岡市寿
金峯山登拝道青竜寺口の南東にあり、南東は川口村、北は下中島村。地名は往昔漆の自生が多かったことによるとされ、最上氏時代の漆上納を伝える。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に村名がみえ、高一七九石余。寛永元年庄内高辻帳では高一一一石余、寛永三年庄内高辻帳では一〇七石余。正保郷帳では折橋村に含まれる。弍郡詳記では高一〇六石余、うち畑高四石余、免五ツ九分五厘、家数四。高減少は川口村と同様、不相応の高張田(高租田)を原因とする百姓の減少によるものとされている(黄金村史)。
漆原村
うるしばらむら
[現在地名]日野町福長
北東流する日野川左岸に位置し、南西は印賀原村。村の北東端で同川は粟谷川を合流する。村内を日野往来が通る。元禄一六年(一七〇三)漆ノ原から漆原に改称したと伝える。正保国絵図に村名はみえないが、印賀原村の支村とみられていたようで、元禄一四年当村は久谷村とともに印賀原村に合併(藩史)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」に村名がみえ高六五石余。福田氏の給地であった(給人所付帳)。
漆原村
うるしばらむら
[現在地名]東郷町漆原
舎人川上流で、鉢伏山に続く微高地に位置する。北は北方村。拝領高二〇七石余。横尾氏の給地があった(給人所付帳)。宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)によると朱高二二六石余、高二三二石余、うち畑高三二石余。免四ツ七分。給人として横尾氏・村上氏・羽田氏がいた。悪田加損米三石。藪役銀四匁八分。棟数四軒・役高八〇人。男一〇三・女九〇。
漆原村
うるしはらむら
[現在地名]輪島市三井町漆原
長沢村の南、河原田川上流東岸の山間に立地。正保郷帳に村名がみえ、高五八石余、田方二町九反余・畑方一町。承応三年(一六五四)の村御印では同高、免四ツ一歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高六四石、免四ツ六歩、小物成は山役四五匁(三箇国高物成帳)。慶安五年(一六五二)の当村百姓の嘆願書(福島文書)によれば、寛永期(一六二四―四四)に免二ツ五歩から四ツ一歩に上昇、このため百姓五軒のうち二軒は死絶、一軒は売家という惨状であった。
漆原村
うるしはらむら
[現在地名]上矢作町漆原
曲流する上村川中流にあり、東は上村、西は峰山村(現明智町)・串原村(現串原村)に接する。中馬街道の脇街道が通り、商品移動がさかんであった。慶長郷帳に浅原村とあり、高一一四石余。正保郷帳では田方五一石余・畑方六三石余。
漆原村
うるしばらむら
[現在地名]明方村奥住
吉田川上流域、南下流は口長尾村。西の奥長尾村とは長さ五間一尺の一本橋で結ばれる。正保郷帳に村名があり、田方一六石余・畑方八一石余。文政六年(一八二三)下川筋・明方筋の村々世話役の増人分として、当村喜十郎などが任命されている(「世話役増人触書」石田文書)。
漆原村
うるしはらむら
[現在地名]鯖江市漆原町
野田村の南西、山麓に位置する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図の丹生北郡中に村名がみえ、高三三七・六八石。正保郷帳によると田方二九八石余・畠方三九石余。枝村に向青野がある(越前国名蹟考)。貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領となり、元禄一〇年(一六九七)高森藩領、のち幕府領、明和元年(一七六四)三河国西尾藩領となる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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