翻訳|omnibus
19世紀初頭のヨーロッパの都市において,重要な公共輸送機関として発達した,通常2頭立て4輪の馬車。現在の路線バスに相当する。ヨーロッパ諸語ではomnibusの語をあてるが,元来はラテン語で〈万人のために〉を意味し,乗合馬車の呼称としては19世紀初頭,フランスのナントで採用された。また,この言葉からバスの語が派生した。
哲学者のパスカルが17世紀後半に入って最初に考案したといわれ,その計画は1662年にパリ市内で実現され,営業が認可された。この乗合馬車は19世紀に発展したものと同じ性格をすでにもっており,パリの街区から街区へと決められた路線を定時運行し,五つの路線をもち,運賃は5ソルと高価なものだった。しかしこの最初の試みは短期間で終りを告げた。
乗合馬車の本格的な営業開始は,工業化による都市人口の膨張が目だつようになった時点にあたっており,とくに他の都市に比して群を抜いた人口が集中するにいたったロンドンやパリで急速に発達した。まず1820年にロンドンで試みられ,27年にフランスのナント,次いで28年にパリに路線を経営する会社が設立された。アムステルダムでは39年から始まった。ロンドンで乗合馬車が公共輸送として役に立ち始めたのは1831年末から32年の初めにかけてで,パディントンからイングランド銀行までが最初の路線であった。この路線は40年代には二つの会社が,それぞれ40台の馬車で運行するようになっていた。この頃,ロンドンを中心に約900台の乗合馬車が使われていたという。パリにおける最初の路線は,市内の環状並木大通り(ブールバール)を,その西端のマドレーヌ教会から東端のバスティーユ広場までを結ぶものであった。途中,タンプル大通りからは民衆居住街区に接するが,ここでみすぼらしい車体に取り替えて走行したといわれる。1828年末にはパリ全体で12路線89台の馬車が動き,日に3万1000人の乗客があった。以上は一つの会社の経営するもので,当初9%の利子配当をしたという。しかしすぐに他の20にのぼる会社が営業を開始し,それぞれが独特の色や型の車体を備えて張り合い,すさまじい競争となった。この結果多くの会社が倒産する騒ぎとなったが,30年7月には31路線が運行されていた。
この19世紀初頭は,都市空間の近代化が始まりつつあった時期にあたるが,オスマンの都市改造以前のパリによく表現されているように,街路は狭く,多数の呼売人が路上において生計を立てており,そこに大型の乗合馬車が出現するということは,都市生活の変容を象徴するようなできごとであった。狭い街路の人の動きに対応して右折また左折の楽な三輪の馬車も出現し,トリシクルtricycleと称して営業する会社も現れた。しかしこのようにして近代的な交通体系が都市空間を区切っていくとき,路上の呼売などで生活する細民は排除され,秩序づけられていくのである。19世紀の後半,乗合馬車の路線の一部は軌道馬車となり,20世紀初頭の乗合自動車(路線バス)の出現で姿を消すことになった。
執筆者:喜安 朗
日本では古来乗用に馬車を用いなかったため,乗合馬車が出現したのは1870年(明治3)で,外国公館が東京~横浜間に連絡用として走らせたものであった。この馬車は日本人を便乗させることもあった。横浜に成駒屋という馬車屋ができ,横浜~東京間の路線営業を始めたのも70年という。72年には東京の浅草雷門~新橋間を3区に分け,1区1銭で客を乗せる乗合馬車が登場し,らっぱを吹きたてて客を集めた。74年には2階建て馬車が登場したが,翌年転ぷく事故を起こし,危険のゆえをもってまもなく禁止された。やがて料金は1区1銭5厘に値上げされ,また品川~新橋間その他にも路線が開かれ,77年9月には雷門~新橋間のものだけで車両数87,1日平均売上げは100円にも達する盛況を見せた。しかし,82年6月に鉄道馬車が開設されるとしだいに中央部から駆逐され,さらに市内電車が登場,その路線の伸長に伴って,1910年には東京市内の乗合馬車はまったく姿を消した。東京以外では1873年に京都~大阪間を5時間で結ぶ路線が開通,79年以降東京~宇都宮,東京~水戸といった区間の営業も行われた。こうした幹線の乗合馬車は鉄道の開通に伴って影をひそめたが,鉄道の各駅から後背地へのローカルな路線はバスの普及を見るまで地方の交通機関として重要な役割を果たし,馭者の吹き鳴らすらっぱの音にちなんでトテ馬車の名で親しまれていた。
→鉄道馬車 →馬車
執筆者:加藤 秀俊+鈴木 晋一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
数人の人を乗せて馬が牽引する車。幕末期に外国人の手による乗合馬車が,横浜と江戸の外国公使館の間や横浜―箱根間にみられた。日本人による乗合馬車営業は,1869年(明治2)2月横浜の川名幸左衛門らが出願し,同年5月に開業した成駒屋が最初。横浜―東京間で営業し,2頭立て6人乗り,料金は1人金3分であった。鉄道の発達とともに姿を消した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…大量の人員を輸送することを目的とした乗合自動車。語源は乗合馬車を意味するオムニバスomnibusに由来する。道路交通法では,乗合自動車は,乗車定員11人以上の旅客運送用の普通自動車と規定しており,一般乗合バスと特定旅客バスに分けている。…
…一定区間を定期的に走る公共用の乗合馬車。駅馬車の出現のためには,道路の改善と道路網の発達,馬車の車体の改良,旅行客の増加といった条件が必要であったが,すでに17世紀にはロンドンやパリで駅馬車が運行されていた。…
…また99年にはF.deバソンピエールがフランスにイタリアから窓ガラス付きの馬車をもたらし,アンリ4世時代から馬車製造が保護され,ルイ13世,14世時代に四輪馬車が地方にまで普及していった。パスカルもアケhaquetといわれる二輪馬車を考案しているが,とくに6人乗りの乗合馬車を考案したことで知られる。ルイ14世のときには,N.ソバージュの考案による時間ぎめの辻馬車がパリに現れ,フィアクルと呼ばれた。…
…その最中,ポール・ロアイヤルの寄宿生であった彼の姪に奇跡が生じ,このできごとに神意を読みとった彼は奇跡の意味に関する考察を行うが,それはやがて自由思想家に対してキリスト教の真理を明らかにする《キリスト教護教論》の構想に転化した。晩年のパスカルは病気に悩まされながら,サイクロイドの求積問題を解決して微積分学の先駆的業績をあげたり,慈善事業の資金作りのためにパリに最初の乗合馬車の会社を設立するなどの活動も行ったが,主力は《護教論》の執筆に注いだ。しかし著述は完成せず,その準備ノートだけが残され,《パンセ》として死後出版された。…
※「乗合馬車」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新