軌道上に馬車を走らせるという輸送手段は,18世紀ごろからヨーロッパの炭坑などで出現していたが,都市交通機関としての馬車鉄道は,19世紀半ばアメリカの各都市に出現した。日本では1869年(明治2)北海道茅沼炭坑で,軌道上を牛が炭車を引く方式が採用されたが普及しなかった。都市交通機関としては1882年6月25日,東京馬車鉄道会社が新橋~日本橋間で開業,10月1日までに日本橋~上野~浅草~本石町~日本橋の循環線が完成した。軌間は4フィート6インチ(約1372mm),定員24~27人の馬車を2頭の馬が引いた。この馬車鉄道は,新橋と上野という南北の鉄道のターミナルを結ぶ交通機関として利用者が多く,1902年には車両300両,馬2000頭を保有したという。こののち,各地で馬車鉄道が開業したが,東京のような都市交通機関としてではなく,(1)都市と郊外とを結ぶもの,(2)鉄道開通前の街道における輸送機関,(3)鉱石などの輸送機関,がそのほとんどであった。1889年の秋田馬車鉄道は(1),1888年の碓氷馬車鉄道は(2),1907年の赤井軌道は(3)に属する。これらの馬車鉄道は1890年8月25日公布の軌道条例(のち1921年4月14日公布,24年1月1日施行の軌道法)によって規制され,49年銀鏡(しろみ)軌道組合の解散まで各地で運輸営業を続けた。(2)(3)のものは軌間762mm,914mmといった小型のものが多かった。
執筆者:原田 勝正
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馬車鉄道ともいい、軌道上を走る馬車の輸送機関。1836年ニューヨークで市内交通機関として現れ、1854年にパリ、1861年にロンドン、1865年にベルリンと、世界の各都市に広まった。
日本では、1882年(明治15)6月、東京馬車鉄道会社により新橋―日本橋間に開通し、続いて10月には日本橋―上野―浅草―浅草橋―日本橋間が開通した。車両はイギリス製と日本製とを混用しており、4フィート6インチ(1372ミリメートル)幅の軌道上を、定員24~28名の客車1両を2頭の馬が牽引(けんいん)した。乗合馬車に比べてたいへん快適とされ、その後全国各地に広まり、1891年に大阪、1898年には函館(はこだて)でも開通した。しかし、京都の市街電車をまねて東京でも1903年(明治36)東京馬車鉄道は電車に変わり、後の市電、都電の基礎となった。地方都市でもしだいに鉄道馬車は電車やガソリンカーにかわり、第一次世界大戦前にはほぼ姿を消したが、地方によっては昭和の初めまで残っていた。
[山内まみ]
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…やがて料金は1区1銭5厘に値上げされ,また品川~新橋間その他にも路線が開かれ,77年9月には雷門~新橋間のものだけで車両数87,1日平均売上げは100円にも達する盛況を見せた。しかし,82年6月に鉄道馬車が開設されるとしだいに中央部から駆逐され,さらに市内電車が登場,その路線の伸長に伴って,1910年には東京市内の乗合馬車はまったく姿を消した。東京以外では1873年に京都~大阪間を5時間で結ぶ路線が開通,79年以降東京~宇都宮,東京~水戸といった区間の営業も行われた。…
※「鉄道馬車」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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