二塚村(読み)ふたづかむら

日本歴史地名大系 「二塚村」の解説

二塚村
ふたづかむら

[現在地名]高岡市二塚

千保せんぼ川と庄川に挟まれ、東藤平蔵ひがしとうへいぞう村の南方に位置。もとは本江ほんごう村とよばれていたという。村名は鎌倉時代末期に越後からの旅人が当地で病死し、その遺言により持っていた金の御幣と鷹を二つの塚を築いて埋めたことに由来すると伝える(「浄誓寺由緒書」浄誓寺蔵)。当初は二塚村・上二塚村・東二塚村・二塚新村の四ヵ村に分れていたという(越中二塚史)。天正一五年(一五八七)九州征討論功行賞として、前田利長により当地で三千四〇〇俵が槻尾氏・寺島氏に給付され、給人の代官支配地となった(「知行村割状」寺島家文書)。それらのうち文禄元年(一五九二)槻尾父子給人地五四〇俵・寺島父子給人地六六五俵が川崩れとなり、翌二年礪波となみ赤丸あかまる(現福岡町)蓮沼はすぬま(現小矢部市)で替地が与えられた(「前田長種等連署状」水越家文書)。また天正二〇年当村の二郎左衛門に対して、上は「さうね村」下は二塚を限り鮭川役八尺が申付けられた(「鮭川役申付状」有賀家文書)

寛文三年(一六六三)の川西家高付帳(川合家文書)では東二塚村・西二塚村・三本松さんぼんまつ村と各々独立して記載され、東二塚村の役家高六、うち無役村肝煎家一、西二塚村の役家高七、三本松村の役家高一二、うち無役村肝煎家一。


二塚村
ふたづかむら

[現在地名]行橋市二塚

吉国よしくに村の西、長峡ながお川中流域左岸に位置し、同川支流柵見さくみ川が中央部を流れ、北と南は丘陵地。西は長木おさぎ村。文明一〇年(一四七八)八月二七日の大内政弘知行宛行状(萩藩閥閲録三)によると、大内政弘は大内義豊に「京都郡二塚」を預け置いた。長享元年(一四八七)に政弘は米七〇〇石を進上した報賞として、安東俊国に毛利彦三郎跡の二塚二〇石を給与している(同年一一月二八日「大内政弘袖判伴田弘興宛行状」本間文書/大日本史料八―二〇)


二塚村
ふたつかむら

[現在地名]加古川神野町神野かんのちようかんの新神野しんかんの一丁目・同六丁目・同八丁目

手末てずえ村の西に位置し、西は加古川に接する。南部くもり川が西流する。慶長国絵図に村名がみえ、その西に「野村」が記される。寛永八年(一六三一)手末村から分村したと伝えるが(宝暦一四年「村明細帳」納庄家文書)正保郷帳には記載がない。元禄郷帳では「古ハ手末村」と肩書されて村名がみえ、高三〇一石余。寛文七年(一六六七)免状(納庄家文書)によれば高三〇一石余、うち永引高一〇石余、新田高一四石余。宝暦一四年(一七六四)の前掲村明細帳では高三六五石余、うち高三五石余は出作、小物成は犬米・茶米・川船役米、請林運上銀・請川運上銀・綱網運上銀、家数八八・人数三八九、高瀬舟一、牛一五、農間に縄・筵・ザル振売、蚕種売・毛綿稼。


二塚村
ふたつかむら

[現在地名]揖保川町二塚

二塚東村の西と南に位置し、西から東にかけては養久やく山を境に龍子りゆうこ(現龍野市)。文禄三年(一五九四)六月五日の豊臣秀吉知行方目録(金井文書)に二塚村とみえ、同村の四九四石余などが小出大和守に与えられている。慶長一四年(一六〇九)一一月二六日の池田輝政家来地方知行目録(池田家文庫)によると、当村の四七二石余は下間越前守に与えられている。領主変遷半田はんだ村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高四七五石余、高三九二石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android