二部宿
にぶしゆく
[現在地名]溝口町二部
北流する野上川右岸の沖積平野と東部の小台地に位置する出雲街道の宿場。南部で同川に北西流する間地川が合流する。「伯耆志」は支村として同川沿いの間地を記す。当宿の入口には一里塚があったが、昭和五〇年代の圃場整備によって旧状を失った。出雲街道は北の三部村から野上川を渡り、宿内を縦貫し、間地の一里塚を経て間地川を遡上。間地峠を越えて船場村(現日野町)に至るが、間地川と野上川の合流点には大坂道頓堀(現大阪市)の近江屋市次郎が嘉永二年(一八四九)に建立した道標があり、「右びんこ、左大さか道」と刻される。なお江戸期の新出雲街道(三部村で出雲街道に合流)から当宿を経て、南の畑中村から津地峠を越える道は、中世の富田街道のルートであった。天正五年(一五七七)八月二〇日の西村三太郎売券(伯耆志)に「伯州日野郡弐部村之内田中名事、合半石之所此内大分こり申候也」とみえ、杉原六郎次郎に代物一二貫文で永代売却されているが、二部の呼称は三部とともに中世の庄郷の地頭職の分割に基づく可能性がある。また地内の字名および伝承によれば、字古寺生松城は左衛門尉実基の居城跡、字古城山は足羽将監重成の居城跡と伝える。慶長六年(一六〇一)と推定される六月八日の横田村詮書状(足羽家文書)によると、二部の理兵衛は日野郡往来の川船組頭に任じられており、船数確保の代償として船諸役を免除された。さらに川船通行の不便な箇所の開削のためか、手寄人足一〇〇人の使役を認められている。
郷帳類などには二部村と記されることが多いが、正保国絵図に二部宿とみえる。享保元年(一七一六)の郷村高辻帳にも二部宿と記され、「古ハ二部村」と注される。藩政期の拝領高は三七五石余、本免は六ツ。延享三年(一七四六)の巡見使案内手帳(宇田家文書)によると高四四六石余、家数一〇五(うち支村間地二四)・人数五九七、馬一八・牛二一。天保九年(一八三八)の巡見一件諸事控(西古家文書)では家数一二一・人数四五一、馬二七・牛五一、鑪一に運上銀一二〇匁が課されていた。地内の鑪は当宿の足羽氏や根雨宿(現日野町)の近藤氏の経営であった。幕末の六郡郷村生高竈付では生高四八四石余、竈数一一七。「伯耆志」では林三一町余、家数一二二・人数五四七、鑪山として間地山・田代山があり、産物は菅笠、人夫一三と駅馬一三がいた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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