日本歴史地名大系 「五郎兵衛新田」の解説
五郎兵衛新田
ごろべえしんでん
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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戦国土豪の流れをくむ市川五郎兵衛真親が,1626年(寛永3)12月に小諸藩主松平忠憲家臣から開発許可状をもらって開発した新田村。現在の長野県佐久市内に所在し,いわゆる佐久平に位置している。すぐ近くを千曲川が流れているが台地上にあるため引水はむずかしく,一部を除いて荒蕪地のまま放置されていた。ここに山ひとつ隔てて流れる鹿曲川から,全長約5里の用水路を開削して引水し開発したのである。その開削技術はひじょうに高度で,工事にまつわるさまざまな苦労話も伝えられている。33年の検地高は439石余,その後47年(正保4)に147石余,58年(万治1)に101石余が加えられる。五郎兵衛は開発の功として,1642年に領主から150石のほうび地を給付された。当初は矢島新田と呼んでいたが,寛文(1661-73)ごろから五郎兵衛新田と称するようになる。はじめ小諸領で,1701年(元禄14)に幕領となり幕末に及んだ。
執筆者:斎藤 洋一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
江戸初期に信濃国佐久郡内に開発された新田(現,長野県佐久市)。はじめ矢島原新田・八幡原新田などとよばれた。1626年(寛永3)市川五郎兵衛真親(さねちか)が小諸藩の許可を得て用水路の開削に着手。31年頃に途中数カ所の掘貫を含む延長20km余の用水路である五郎兵衛用水が完成。この用水をもとに開発された。最初の検地は33年だが,開発はその後も続き,江戸中期までに田畑あわせて約73町歩が開発された。五郎兵衛が没した65年(寛文5)頃から五郎兵衛新田とよばれるようになった。
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