五郎兵衛新田(読み)ごろべえしんでん

日本歴史地名大系 「五郎兵衛新田」の解説

五郎兵衛新田
ごろべえしんでん

[現在地名]水海道市五郎兵衛新田町

東仁連ひがしにれ川西岸に所在。南は庄右衛門しようえもん新田・大口おおぐち新田(現岩井市)。享保年間(一七一六―三六)飯沼新田いいぬましんでん開発によって成立した村落で、横曾根古よこぞねこ新田の請地であったが開発途中で尾崎おさき(現結城郡八千代町)名主左平太の引請地となった。「飯湖新発記」には享保一三年のこととして「去暮中願書指上候一村立之義此度筧播磨守様より御下知相済(中略)横曾根新田御取上地之内請所ハ村名五郎兵衛新田と相記候」とみえ、左平太の子五郎兵衛の名が付けられた。

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改訂新版 世界大百科事典 「五郎兵衛新田」の意味・わかりやすい解説

五郎兵衛新田 (ごろべえしんでん)

戦国土豪の流れをくむ市川五郎兵衛真親が,1626年(寛永3)12月に小諸藩主松平忠憲家臣から開発許可状をもらって開発した新田村。現在の長野県佐久市内に所在し,いわゆる佐久平に位置している。すぐ近くを千曲川が流れているが台地上にあるため引水はむずかしく,一部を除いて荒蕪地のまま放置されていた。ここに山ひとつ隔てて流れる鹿曲川から,全長約5里の用水路開削して引水し開発したのである。その開削技術はひじょうに高度で,工事にまつわるさまざまな苦労話も伝えられている。33年の検地高は439石余,その後47年(正保4)に147石余,58年(万治1)に101石余が加えられる。五郎兵衛は開発の功として,1642年に領主から150石のほうび地を給付された。当初矢島新田と呼んでいたが,寛文(1661-73)ごろから五郎兵衛新田と称するようになる。はじめ小諸領で,1701年(元禄14)に幕領となり幕末に及んだ。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「五郎兵衛新田」の解説

五郎兵衛新田
ごろべえしんでん

江戸初期に信濃国佐久郡内に開発された新田(現,長野県佐久市)。はじめ矢島原新田・八幡原新田などとよばれた。1626年(寛永3)市川五郎兵衛真親(さねちか)が小諸藩の許可を得て用水路の開削に着手。31年頃に途中数カ所の掘貫を含む延長20km余の用水路である五郎兵衛用水が完成。この用水をもとに開発された。最初の検地は33年だが,開発はその後も続き,江戸中期までに田畑あわせて約73町歩が開発された。五郎兵衛が没した65年(寛文5)頃から五郎兵衛新田とよばれるようになった。

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百科事典マイペディア 「五郎兵衛新田」の意味・わかりやすい解説

五郎兵衛新田【ごろべえしんでん】

1626年,市川五郎兵衛が開発した新田村で,現在の長野県浅科(あさしな)村(現・佐久市)内に所在する。1631年用水堰を開削し鹿曲(かくま)川からの引水に成功,当初は矢島(やしま)新田とよばれたが,のち五郎兵衛新田と改めた。1633年の検地高439石余。1642年,五郎兵衛は開発の功を賞され,褒美地を給付されている。初め小諸藩領,のち幕府領となった。

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