井原庄(読み)いのはらのしよう

日本歴史地名大系 「井原庄」の解説

井原庄
いのはらのしよう

旧香川郡の南部、現香南こうなん町・香川町から塩江しおのえ町一帯に比定される。庄域について近世に成立した冠尾八幡宮由緒に、川東かわひがし(現香川町)おか由佐ゆさ横井よこい吉光よしみつ池内いけのうち西庄にしのしよう(現香南町)からなる由佐郷と、川内原かわないはら東谷ひがしだに(現香川町)、西谷(現塩江町)からなる安原やすはら三ヵ山を含み、由佐郷を「井原里分」、安原を「井原山分」とよんでいたとある。冠尾かむりお八幡宮は現香南町由佐にある冠纓かんえい神社で、天文二〇年(一五五一)の細川澄賢による奉加を書上げた冠尾八幡宮奉加帳断簡(冠纓神社文書)に「讃岐国東方井原庄冠尾八幡宮」とみえ、文明七年(一四七五)の同宮放生会頭番帳や大永五年(一五二五)から近世にいたる同宮放生会頭番帳(いずれも由佐家文書)に記す地名は、岡・由佐・横井吉光など井原里分に属する諸村にまたがっている。同社は当庄の庄鎮守的存在であったとみられる。また近世に安原下村に属していた鮎滝あゆたき(現香川町)は当庄の一部をなしていた。これらの点からみて、前掲由緒に記す庄域の所伝は信用されよう。文安三年(一四四六)二月一六日の細川勝元安堵状(同文書)に「井原庄安原山大野村」とみえる「井原庄」「安原山」がそれぞれ里分・山分に相当するのであろう。庄の中心地は冠尾八幡宮が所在し、南北朝期から当庄を領有した国人由佐氏の名字の地由佐であろう。


井原庄
いはらのしよう

牧山まきやま川流域一帯と、同川を合流した加古川篠山川と合流する辺りに展開する庄園。古代井原郷(和名抄)の郷名を継承。嘉元三年(一三〇五)七月二六日の亀山上皇仏事用途定文案(亀山院崩後仏事記)、および同四年六月一二日の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)に「井原上庄」「同下庄」などとみえ、当時は後堀河天皇の皇女室町院の庄園であった。皇室領として伝領されてきた庄園なので、成立は古いと思われるが、その経緯は不明。ただし二月五日の西市正資高書状(勘仲記建治元年一一月記紙背)や、正応三年(一二九〇)の宝帳布所進諸庄目録(近衛家文書)にみえる「井原」は当庄のことか。


井原庄
いばらのしよう

井原市井原、後月しつき芳井よしい町の南部辺一帯に比定される。源平合戦後、那須氏が地頭として入部したとの伝承がある。嘉元三年(一三〇五)の摂渡庄目録(九条家文書)に山城宇治平等院領としてみえ、年貢は布六〇〇反・中紙六〇〇帖・檜皮一〇〇井。宮方随身久重が知行し、のちに小政所となったとの注記がある。暦応五年(一三四二)の同目録(同文書)では菅三位の知行となっている。

嘉吉元年(一四四一)以前に権利の一部が等璋蔵主より宝山乾珍(玉潤軒開山)に譲与され、京都相国しようこく寺勝定院玉潤軒領となった(「蔭涼軒日録」長禄四年一二月一八日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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