井原村(読み)いばらむら

日本歴史地名大系 「井原村」の解説

井原村
いばらむら

[現在地名]石見町井原

中野なかの村の東、かん山西麓を北西流する井原川流域および同川と矢上やかみ川が合流したにごり川流域に位置。濁川は権現ごんげん山東麓の石英斑岩の渓谷を大きく屈曲して北流するが、この魚切形の渓谷は断魚だんぎよ渓と称され国指定名勝。一帯は県立自然公園となっている。断魚渓を望む地に断魚渓温泉(獺越鉱泉)がある。

〔中世〕

貞応二年(一二二三)三月日の石見国惣田数注文に邑智郡の庄領として「いはらひさなかのしやう 五十丁之内」とみえるが、「いはら」は同注文執筆後の追記とみられる。なおこれを地名に由来すると考えると、当地は久永ひさなが庄に含まれていたと推測される。康暦二年(一三八〇)四月二八日の大内義弘知行充行状(庵原家文書)によると、当時石見国守護となっていた周防の大内義弘は小笠原右京入道に「石見国井原左近将監跡」の地頭職を与えている。同充行状は、戦国期になって現れる小笠原氏被官井原氏による井原領有の正統性主張とかかわって伝来したものと推測される。井原が明確な地名として現れるのは永正五年(一五〇八)六月一日の小笠原長隆判物(同文書)で、長隆は被官井原弥六に弥六の祖父君善左京亮の軍忠を賞して「井原之(か脱カ)ちや名三貫文」の地を名字の在所である本領として与えている。以後一六世紀半ばまでこの地域は小笠原氏の勢力下に置かれたと推測される。


井原村
いばらむら

[現在地名]安佐北区白木しらき町井原

高田郡に属し、荒谷あらたに山の東南麓、三篠みささ川のつくる谷筋と、その支流栄堂えいどう川の下流域に集落がある。東は高田郡有留ありどめ(現向原町)、西は古屋こや村。「芸藩通志」に「広さ廿一町、袤三十町、東西山高く連り、南北は少しく開て隣村に接く、川一流南界に出る、飛郷一、古屋村にあり」と記す。

和名抄」に記す高田郡三田みた郷のうちで、寛治三年(一〇八九)一〇月九日の散位佐伯忠国田地売券(野坂文書)に「合肆段 在三田郷井原村字斗前坪 四至東限公田 南限友垣田 北限山道 西限斗前」とある。またこれより四年前の応徳二年(一〇八五)三月一六日付の高田郡司藤原頼方所領畠立券文(新出厳島文書)に「先祖相伝所領畠」として記される三田郷内の「熊埼村・小田村・佐々井村・高山村・大寺村」は、いずれも井原村内に小字として地名が残る。なかでも佐々井ささい村は古く治暦二年(一〇六六)三月二日付の中原実安田地売券(酒井清太郎氏所蔵厳島文書)に「三田郷佐々井村字桑田」とみえ、散位中原実安が佐々井村内の田を郷司藤原朝臣(守遠か)に売渡している。


井原村
いわらむら

[現在地名]前原市井原・曾根そね

三雲みくも村の南に位置し、西部を瑞梅寺ずいばいじ川が北流する。東は西堂にしのどう村。イハラともよぶ(地理全誌)。「続風土記」に「郡中第一の広邑にして、膏腴の地」とあり、井原三千石と称された大村。永徳二年(一三八二)五月三〇日の頼興宛行状(湯屋文書/南北朝遺文(九州編)五)に「井原庄」がみえ、給分として三町などが深水修理允に与えられている。長禄二年(一四五八)庄内の八尋給七町五反と大窪四郎右衛門尉給七町五反、唐橋給五町が平山備前入道に与えられた(同年八月一七日「少弐教頼宛行状」町人宗家判物帳/長崎県史 史料編一)。文明一〇年(一四七八)父の知行分であった庄内の五石の地が大河内弥五郎に(同年九月二八日大内氏奉行人連署奉書「正任記」同年一〇月九日条)、同一二年当庄のうち観世音寺(現太宰府市)領三千仏敷地代所である三町などが観世音寺房顕留守に安堵されている(同年三月三日「少弐政資書下」大内氏実録土代/大宰府・太宰府天満宮史料一三)。天文八年(一五三九)頃の九月一八日の臼杵鑑続宛行状(児玉採集文書)によれば、定直中務丞は原田氏に与えられていた井原のうち五町分と下道満分屋敷一ヵ所の下地職を与えられている。


井原村
いばらむら

[現在地名]井原市井原町

笹賀ささか村の北東、小田おだ川の谷口に位置し、南は上出部かみいずえ村。井原庄の遺称地。永禄三年(一五六〇)の毛利元就宛行状(川合文書)で「井原地之内抱分」七貫八九二文などが河井清久に与えられた。年未詳の福永兵庫助宛毛利輝元感状(萩藩閥閲録)に井原村とみえる。寛永備中国絵図では高六二六石余、うち山崎家治先知高六〇六石余・善福寺領高一〇石・北山寺領高一〇石。正保郷帳では両寺領のほかに旗本池田領高六〇八石余。枝村に岩野いわの村・なつめ(夏目)村・倉掛くらかけ村がみえ、いずれも字名として残る。

「寛政重修諸家譜」などによれば、松山池田藩二代藩主池田長常の弟長信は、寛永一九年(一六四二)後月しつき郡に一千石を領し、当村に陣屋を構えた。


井原村
いはらむら

現泉佐野市の北部海岸に面してあった日根ひね庄四ヵ村の一。地名は天福二年(一二三四)六月二五日の九条家領日根庄の庄域を確認した官宣旨(九条家文書)に「井原里」とみえる。同年(改元して文暦元年)一二月二日の日根庄諸村田畠在家等注文案(同文書)には村名がみえ、日根庄四ヵ村の一として井原村公文の僧覚暁、同地頭代藤原義房が署名している。文永三年(一二六六)四月日の日根庄領家下文(日根文書)によると井原村預所職に日根庄雑掌慈蓮の子である中原(日根野)盛経が補任されている。延慶二年(一三〇九)九条家は日根庄の惣検注を実施、同三年二月一三日、井原村分の荒野注文が出され、都合六三町六反余の荒野があり、人宿南・寺林・小池尻・牛神林などの字名が記される(「日根庄荒野注文」九条家文書)


井原村
いはらむら

[現在地名]新見市千屋井原ちやいはら

さね村の北に位置し、高梁たかはし川の支流井原川が西流する。標高七〇〇―九〇〇メートル級の中国山地に立地し、よもぎ入野いりの森田もりたの集落が井原川沿いに点在。江戸初期は実村とともに千屋村とよばれたが、のち分村、「寛文朱印留」に井原村がみえる。元禄八年(一六九五)の検地帳(新見市役所千屋出張所蔵)によると高二八三石余、戸数五四、持高一五石以上は一、一〇―一五石は五、五―一〇石は二一、一―五石は二〇、一石未満は七。同一〇年新見藩領となり幕末に至る。


井原村
いばらむら

[現在地名]日南町神福かみふく

鬼林きりん(一〇三一・二メートル)の南麓、北東流する九塚くつか川左岸、東流して同川に合流する井原川流域に位置し、北東は高代たかしろ村、九塚川対岸は中野なかの村。北は虫祭むしまつり(まご峠ともいう)を越えてひがし村に至る。拝領高は二〇六石余、本免は五ツ五分。嘉永元年(一八四八)の下札(日南町役場蔵)では、朱高二二五石余(うち畑高二一石余)と開高三二石余に対して物成一四一石余。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二五三石余、竈数三二。「伯耆志」では家数三五・人数一七六、産物は砂鉄。藪役七匁が課されていた(日野郡史)。寛延二年(一七四九)の巡見使答申書によると、日野郡内一六鑪場の一つに数えられており(藩史)、天保九年(一八三八)の巡見一件諸事控(西古家文書)では鑪一に一二〇匁、鍛冶屋二に一二〇匁の運上銀が課されている。


井原村
いはらむら

[現在地名]山南町井原いばら

東は村森むらもり村、村の南方で西流する篠山川と東流する佐治さじ川が合流して加古川となる。合流点より南は播磨国で、当村は加古川の水運と但馬・播磨・京方面への往還が交差する交通の要衝地でもある。古代井原いはら(和名抄)、中世井原いはら庄の遺称地。正保郷帳に村名がみえ田高三一七石余・畠高六六石余、柴山あり、日損・水損少しあり。柏原藩領。慶安三年(一六五〇)までの領主の変遷は南嶋みなみじま村に同じで、国立史料館本元禄郷帳では柏原藩領(元禄八年から)と旗本織田領。「丹波志」では織田領として高は変わらず、家数七三。


井原村
いのはらむら

[現在地名]日野町福長ふくなが

南東流する印賀いんが川の中流に位置する山峡の村。同川を下ると印賀原いんがはら村、東は粟谷あわたに村。井野原・井ノ原とも記す。みちうえに冷泉の湧井があり、村名もこれによると伝え、かつてははらといったという(日野郡史)。慶長六年(一六〇一)と推定される横田村詮書状(足羽家文書)によると、庵原・三谷みたに両村に舟を仕立てての用材運送が命じられているが、庵原村とは当村のことであろうか。正保国絵図井野原村とみえ、正徳元年(一七一一)の郷村高辻帳に「古ハ井野原村」と注される。拝領高は一一石余、本免は五ツ八分。


井原村
いはらむら

[現在地名]加茂川町井原

下土井しもどい村の北に位置し、南流してきた豊岡とよおか川が曲線を描いて東に流れを変える小盆地にある。大山往来が通り、寛永備前国絵図には一里塚の印が記されるが、現在の位置は不明。同絵図では高四一二石余。「備陽記」では田畠三二町七反余、家数五九・人数三一三。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高六五一石は家臣五名の給地。二口高四三八石余、残高三五八石余、田方一九町五反余・二七五石余、畑方一二町九反余・八三石余、家数五三・人数一八七、鍛冶屋一軒、池八(樋守給八斗余)、堰四、百姓自林四〇町四反余、育麦蔵一、猟師鉄炮四。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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