日本大百科全書(ニッポニカ) 「井戸正明」の意味・わかりやすい解説
井戸正明
いどまさあきら
(1672―1733)
江戸中期の幕府代官。名は正朋(まさとも)にもつくる。通称平左衛門(へいざえもん)。幕府御徒役(おかちやく)野中八右衛門重貞(はちえもんしげさだ)の長男として生まれる。1692年(元禄5)勘定役井戸正和(まさやす)の養子となり、正和の死後遺跡を継ぎ小普請(こぶしん)となる。97年表火番(おもてひのばん)となり、1702年(元禄15)に勘定に昇進。31年(享保16)9月、石見(いわみ)国大森代官(島根県大田(おおだ)市大森町)に任ぜられ、銀山領6万石を支配した。ときに60歳。この年は凶年で、正明は他国より米、雑穀を買い入れ窮民の救済にあたる。翌32年に大森の栄泉寺で甘藷(かんしょ)のことを雲水泰永(たいえい)から聞き、薩摩(さつま)(鹿児島県)より種いもを入手し試作したが、大半は失敗した。しかしこのうち邇摩(にま)郡釜野浦(かまのうら)(大田(おおだ)市)では栽培と貯蔵に成功し、のち医師青木秀清(ひできよ)の努力により、飢饉(ききん)救済の食糧として山陰各地に普及した。代官在任中、年貢の減免、領民の救恤(きゅうじゅつ)に尽力したが、33年4月病状が悪化し、備中(びっちゅう)国笠岡(かさおか)代官所(岡山県笠岡市)に移り、5月26日没す。62歳。墓は笠岡市の威徳寺にある。住民は代官在任中の遺徳を追慕して芋(いも)代官と称し、石見周辺の各地に頌徳碑(しょうとくひ)が多い。一説には自刃説もあるが、病死説が有力である。
[村上 直]
『村上直著『江戸幕府の代官』(1963・国書刊行会)』