今宮村(読み)いまみやむら

日本歴史地名大系 「今宮村」の解説

今宮村
いまみやむら

[現在地名]浪速区恵美須東えびすひがし一―三丁目・恵美須西えびすにし一―三丁目・戎本えびすほん町一―二丁目・難波中なんばなか二―三丁目・敷津東しきつひがし一―三丁目・日本橋西につぽんばしにし一―二丁目・日本橋につぽんばし四丁目、西成にしなり太子たいし一―二丁目・萩之茶屋はぎのちやや一―三丁目・花園北はなぞのきた一―二丁目・花園南はなぞのみなみ一―二丁目・天下茶屋北てんがちややきた一―二丁目・天下茶屋てんがちやや一―二丁目・出城でしろ一丁目・長橋ながはし一丁目・鶴見橋つるみばし一丁目・あさひ一丁目など

難波村の南東にあり、東は天王寺てんのうじ(現天王寺区)、南は勝間こつま(現西成区)。村の東部を紀州街道が通る。古くは上町うえまち台地の西側の海浜寄洲の地で、木津川の沖積作用によって中世以後漸次陸地化した。

〔中世〕

当村辺りは中世今宮浜・今宮庄と称され、漁家の密集する地であった。しかも今宮供御人とよばれる魚介類をとって禁裏に供御として貢進した漁民集団が住した。延喜一一年(九一一)一二月二〇日の官符によって摂津など六ヵ国が朝廷に対する日次の御贄を備進する国に指定され、多数の御厨が設置されたが(西宮記)、この時期に、当地も内膳司御厨子所の支配を受ける御厨に指定され、漁民は供御人になったとみられる。ただし、今宮の地名は、「源平盛衰記」巻四七(北条上洛平孫を尋ぬ付髑髏尼御前の事)の「今宮の前木津と云ふ所より海人を語ひて」舟を漕ぎ出して髑髏の尼が入水したと伝える記事などが早いもので、今宮供御人の活動を具体的に示す史料が現れるのも鎌倉時代にはいってからである。鎌倉初期に、内蔵寮頭が御厨子所の別当を兼任する例がひらかれると、今宮供御人も内蔵寮に属することとなった。元弘三年(一三三三)五月二四日の内蔵寮領等目録(宮内庁書陵部蔵)には「今宮供御人上洛之時蛤一鉢進之」とみえる。

今宮村
いまみやむら

[現在地名]箕面市今宮・白島はくしま一丁目・石丸いしまる一丁目

西宿にしじゆく村の東にあり、村の中央を西国街道がほぼ東西に通る。集落は街道沿いにある。豊島てしま郡に属し、萱野かやの郷一一ヵ村の一。地名は建治二年(一二七六)一一月一六日の萱野今宮銭米上日記(勝尾寺文書)にみえる。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図に今宮村とある。領主の変遷は西稲にしいな村に同じ。寛文五年(一六六五)の田畑名寄帳(植村家文書)によると本田畑八町余で分米七三石余、そのほかに永荒のうちで開毛付となった六斗余、新開四反余の分米一石余があった。うち田方は四町五反余、畑方は新開地こみで三町九反余。名請人は一七名で、うち屋敷地をもつ者は六名、他村からの入作はない。元禄七年(一六九四)には、伊勢講田として山地に四反余・分米二石余の田畑を新開している(同文書)。寛政元年(一七八九)の家数四二・人数一二二(今村家文書)。当村は小野原おのはら村とともに多くの出作地をもった。寛永一四年(一六三七)当時、山田上やまだかみ(現吹田市)に三七石余の出作地をもっていたが、天和元年(一六八一)には、さらに山田下村(現同上)五郎右衛門新田の一部を請負開発し、新たに出作高五四石余を有し、合計九二石余となり(箕面市史)、当村の本田高を上まわっている。

今宮村
いまみやむら

[現在地名]銚子市今宮町・三軒町さんげんちよう唐子町からこちよう若宮町わかみやちよう八幡町やはたちよう上野町うえのちよう

荒野こうや村の西方、利根川右岸に位置し、銚子道が通る。清水しみず川が流れる。安政五年(一八五八)当時やなぎ町・三軒町・しば町・中宿なかじゆく目出度めでたの町があった(「銚子領村々記録」船橋市西図書館蔵)。寛永二年(一六二五)知行宛行状に今宮村九〇石余とみえ、旗本坂部領となっている。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高二五六石余で幕府領

今宮村
いまみやむら

[現在地名]美山町大字高野たかの 今宮

つるおか一九ヵ村の一。由良川の支流棚野たなの川の右岸に位置し、若狭(高浜)街道に沿った山間集落。川の上流左岸は栃原とちわら村、下流は市場いちば村。古代は「和名抄」に記す弓削ゆげ郷に属する地。鎌倉時代末期には弓削庄の一部であったが、のち野々村ののむら庄に包含されたともいわれる。室町中期には一時管領細川氏領であったというが(大正一二年「京都府北桑田郡誌」)、確証はない。

慶長七年(一六〇二)幕府領、元和五年(一六一九)より園部藩領となる。

今宮村
いまみやむら

[現在地名]富士市今宮

神戸ごうど村の北、愛鷹あしたか山の西麓に位置する。慶長九年(一六〇四)一〇月の井出正次手形(富知六所浅間神社文書)に「拾八石四升壱合 今宮」とみえ、今泉いまいずみ村の東泉とうせん院領であった。同領として幕末に至ったとみられる。元禄郷帳では高一八石余。天保郷帳では高一二六石余。村高急増の理由は一色村と同じ。旧高旧領取調帳には六所浅間社(現富知六所浅間神社)領一二六石余とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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