今庄村(読み)いまじようむら

日本歴史地名大系 「今庄村」の解説

今庄村
いまじようむら

[現在地名]今庄町今庄

北流する日野川鹿蒜かひる川の合流する左岸に位置する。敦賀郡と越前主要部を隔てる山岳地帯を越える山中やまなか峠越・峠越・とち峠越の道はすべて今庄で合流し、このため軍事上の要地としてひうち城など城郭が築かれ、また交通の要衝として関所が設けられた。「源平盛衰記」巻二八には「今城」とみえ、「太平記」巻一八には「新道・今庄・桑原・宅良・三尾河内四五里ガ間ノ在家ヲ一宇モ不残焼払テ」と記される。ここに関所が設けられたことについては、「気比宮社記」に永享七年(一四三五)の次のような注進が載る。

<資料は省略されています>

朝倉氏時代にもここに関所が設けられたらしく、享禄二年(一五二九)の六月二〇日付某書状(朽木文書)にも次のようにある。

<資料は省略されています>

元亀三年(一五七二)一一月、興福寺大乗院尋憲の従者が北国へ下向した際の費用を報告したなかにも「三百六十文今しよう吉田殿役所」とあり(尋憲記)、三尾河内轆轤師衆中宛の元亀三年六月一九日付吉田新兵衛尉正久役銭免許状写(浄光寺文書)にみえる吉田氏が今庄を治めて、関所を支配したらしい。

なお当地には金山があったらしく、慶長三年(一五九八)蔵納目録(「今庄村誌」所収)に「浅野長政、今庄金山五枚五両二匁六分」とあり、当村で製錬したらしい。今庄北方の鍋倉北谷なべくらきただにに当時のものと思われる廃坑がある。

天正三年(一五七五)頃、織田信長に仕えた赤座吉家が隣村新道しんどう村から当地に居館を移して城下町的街衢の発達をみたが、慶長五年西軍にくみして当地を追放された後は、翌年入国した結城秀康の北陸街道整備によって宿駅として発展した。


今庄村
いまじようむら

[現在地名]浅井町今荘いまじよう

相撲庭すまいにわ村の北、あね川中流右岸に位置。集落北部を北国脇往還が通る。北東部山地に今荘古墳群、東に小岸おぎし古墳、北西には豊菊とよぎく塚がある。豊菊は山本判官の妻(輿地志略)とも後鳥羽上皇侍女とも伝える。建武四年(一三三七)八月二五日の光厳上皇院宣案(下郷共済会蔵)に「湯次上庄内今庄」とみえ、浄蓮華院領であった。寛永石高帳によれば高二五五石余で小堀遠州領(幕府領か)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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