伊東陶山(読み)いとうとうざん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊東陶山」の意味・わかりやすい解説

伊東陶山
いとうとうざん

京都の陶工で、明治から昭和にかけて3代が陶業を継承したが、初代が著名。

初代

(1846―1920)京都に生まれる。名は幸右衛門。亀屋旭堂(きょくどう)に陶法を学び、1867年(慶応3)に祇園(ぎおん)白川畔(はん)に開窯し、朝日焼の復興や粟田口焼(あわたぐちやき)の改良に努力した。とくに粟田口焼職工組合の組合長となってその発展の先頭にたち、海外輸出物を中心にして新生京焼の振興に尽力し、自らは、染付や色絵陶に京都らしい雅趣のある作風をつくりあげ、1917年(大正6)には帝室技芸員にあげられた。なお2代は1938年(昭和13)没。3代は1970年(昭和45)没。

[矢部良明]

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朝日日本歴史人物事典 「伊東陶山」の解説

伊東陶山

没年:大正9.9.24(1920)
生年:弘化3(1846)
明治期京焼の陶工。名は重太郎,のちに幸右衛門。明治28(1895)年より陶山を名乗る。京都粟田口に生まれ,絵を円山派の画家小泉東岳に学び,文久3(1863)年,京都五条坂の陶工亀屋旭亭に師事し陶技を学ぶ。さらに3代高橋道八,幹山伝七,9代帯山与兵衛らの指導を受け,各地の窯場を巡った。慶応3(1867)年,京都粟田白川畔に開窯。京焼の改良を志し,明治24年には本焼絵付の技法を完成,同29年には京都に陶磁器試験場と伝習所を開設した。さらに36年には浅井忠,宮永東山らと陶器研究団体「遊陶園」を結成するなど京都陶芸界の発展に尽くした。大正6(1917)年,帝室技芸員となる。

(伊藤嘉章)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

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