桃山時代以降,京都で作られた陶磁器の総称。ただし一般に楽焼(聚楽焼)は含まない。桃山時代末,茶の湯の興隆とともに茶器焼造の窯として始められたとみられている。はじめは瀬戸あるいは美濃の陶工らが三条粟田口に開窯し,唐物や古瀬戸写しの茶入,当時流行の高麗茶碗(御本(ごほん),呉器,伊羅保)などの写しものを作った。しだいに銹絵(さびえ)や染付なども併用し,瀬戸の緑釉(織部釉)や交趾(こうち)釉,七宝釉,色楽釉などを用いて,京焼色絵陶器の先駆的なものが作られた。これらの陶技が集大成され,京焼の存在が広く知られるようになるのは,野々村仁清による〈御室(おむろ)焼〉の出現によってであった。仁清は1656-57年(明暦2-3)ごろから本格的な色絵陶器を焼造した。その典雅で純日本的な意匠と作風の陶胎色絵は,粟田口,御菩薩池(みぞろがいけ),音羽,清水,八坂,清閑寺など東山山麓の諸窯にも影響を及ぼし,後世〈古清水(こきよみず)〉と総称される色絵陶器が量産され,その結果,京焼を色絵陶器とするイメージが形成された。一方,1699年(元禄12)仁清の陶法を伝授され洛西鳴滝の泉山に窯を開いた尾形深省(尾形乾山)は,兄光琳の絵付や意匠になる雅陶を製作し,〈乾山(けんざん)焼〉として広く知られた。初期の京焼は,これら仁清の御室焼や古清水,乾山の雅陶などによって特徴づけられ,瀟洒(しようしや)な造形感覚,典雅な絵付や意匠によって最初の黄金期をむかえた。
その後,製陶の中心は東山山麓の清水,五条坂地域へ移り,19世紀初頭の文化・文政期には,奥田穎川や青木木米らによって本格的な磁器が焼造され,当時流行の中華趣味,煎茶趣味ともあいまって,中国風な青花(染付)磁器や五彩(色絵)磁器が京焼の主流をなしていった。なかでも穎川による呉須赤絵写しや古染付写しなどは,本格的な京焼における磁器焼造の初期の作例として注目される。また穎川の門下には青木木米,仁阿弥道八,欽古堂亀祐,三文字屋嘉介らが集まり,染付磁器や青磁,白磁,色絵磁器,交趾釉などに加えて伝統的な京焼の技法にも腕を振るった。木米は文人趣味豊かな煎茶具などで名をなし,亀祐は青磁に,嘉介は五彩磁器に優れ,仁阿弥は典雅な仁清写し,乾山写し,光悦写しなど和様の作品を多く残している。また別系統ながら永楽保全,和全の父子も華やいだ金襴手や交趾釉に腕を振るい,新興町人層の趣向に適応していった。その結果,近世後期の京焼はあらゆる陶技の集積地,名工の輩出地として脚光をあび,各地で興された御庭焼や藩窯の開窯や指導に大きな役割をはたしている。
幕末・明治の変革期には西欧陶技の導入,輸出陶磁の製作,工場生産への転換などが試みられたが必ずしも成功せず,その後は伝統的な高級品趣向,技術的な卓越さ,個人的作家的な性格を強めながら継続された。そして伝統的なものと革新的なものが共存しながら多くの陶芸作家を輩出し,第2次大戦後には走泥社など新しい陶芸運動の発祥地ともなり,現在では〈京焼・清水焼〉として通産省より伝統的工芸品の指定を受けるに至っている。
執筆者:河原 正彦
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桃山~江戸時代の近世京都の陶磁器の総称。平安時代以来長く都の置かれた京都には、初め緑釉(りょくゆう)陶窯が開かれたことはあったが、中世にはまったく不作で、築窯が活性化するのは近世に入ってからである。その先鞭(せんべん)をつけたのは千利休(せんのりきゅう)が指導した楽(らく)長次郎の楽焼であり、1586年(天正14)には宗易(そうえき)(利休の名)形の黒楽・赤楽の茶碗(ちゃわん)を完成した。楽焼は中国明宋(みんそう)期の交趾(こうち)焼(三彩の一種)の鉛釉技術を導入して新機軸を樹立したもので、低火度の鉛釉を用いるため窯の規模も小さく、屋内に築かれるところから内窯(うちがま)とよばれた。これに対して傾斜地に築かれる長大な窯は本焼きとよばれ、江戸時代になると京都東山の山麓(さんろく)一帯を中心に、清水(きよみず)焼、清閑寺(せいかんじ)焼、粟田(あわた)焼、御菩薩池(みぞろがいけ)焼、八坂(やさか)焼、音羽(おとわ)焼、修学院(しゅがくいん)焼などが開かれていった。
京焼の語は1605年(慶長10)の『神谷宗湛(かみやそうたん)日記』が初出で、このころ東山一帯の本焼きは瀬戸焼を中心に信楽(しがらき)焼などの窯技を受けて始まり、とくに茶の湯道具に活路をみつけたと推測される。この東山一帯の窯の初期の作品がいまはほとんど把握されえないのに対して、洛西(らくせい)仁和寺(にんなじ)の門前に開かれた御室(おむろ)焼は、優秀な作陶力によって初期京焼の名声を一手に集めることとなった。この窯の名は正保(しょうほう)末年の1648年ごろ史料に登場する。瀬戸で修業を終えた野々村清右衛門(のち仁清(にんせい)を名のる)がこの御室焼に迎えられたのは1650年(慶安3)で、以後1人の不世出の名工を得て、瀬戸風の茶具に加えて、透明釉地に上絵付を行う色絵陶器を開発し、京都ならではの洗練の妙を尽くした優美な和様茶具を完成させた。御室焼の窯の近くに居住していた尾形乾山(けんざん)は、仁清の陶法を伝授されて、1699年(元禄12)、近くの鳴滝泉谷に本焼きの窯を開き、兄尾形光琳(こうりん)と組んで独自の琳派画風を加えた加飾陶器をつくり、その雅(みや)びな個性味によって人気を博した。
この2人が活躍した17世紀後半から18世紀にかけては、仁清風、乾山風の色絵陶器や銹絵(さびえ)陶器が東山一帯の窯で焼かれたらしく、遺品も多い。これらの色絵陶はほとんどが飲食器であり、一般に「古清水(こきよみず)」と呼び習わされている無款のもののほか、「清」「岩倉」「京」「清閑寺」「清水」「粟田口」「粟田」「御菩薩池」「藤」「長」などの商標を印捺(いんなつ)した作品も古清水のなかに含めている。
乾山は磁器づくりにも大いに興味を示したが、京都で初めて磁器の焼成に成功したのは18世紀後期であった。中国帰化人の末裔(まつえい)奥田穎川(えいせん)は、家業のかたわら製陶を行い、天明(てんめい)年間(1781~89)ころに初めて白磁を開発し、あわせて上絵付法も試みている。時代の風潮は文人趣味が横溢(おういつ)していたので、必然的に中国陶磁が手本となった。彼の門下から青木木米(もくべい)、欽古堂亀祐(きんこどうかめすけ)、仁阿弥道八(にんなみどうはち)らが輩出し、洋の東西の古陶磁を手本に、多岐多様な明るく晴れやかな陶磁器が個性味豊かに焼造された。そして全国的な御庭焼の普及に伴い、彼らは各地の窯をも指導した。土風炉(どぶろ)づくりの西村家に生まれた永楽保全(えいらくほぜん)もやはり傑出した陶工であった。
[矢部良明]
『林屋晴三編著『日本の陶磁13 京焼』(1975・中央公論社)』▽『河原正彦著『陶磁大系26 京焼』(1973・平凡社)』
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京都で作られる陶磁器の総称。広くはあらゆる陶磁器をさすが,一般的には江戸時代の陶磁器のうち,乾山(けんざん)焼・楽(らく)焼をのぞいた窯の製品の総称。京都では9~10世紀に緑釉(りょくゆう)陶が焼かれたが,以後,桃山時代まで空白だった。慶長年間に三条粟田口(あわたぐち)あたりに本格的な登窯(のぼりがま)が開かれた。「神屋宗湛日記」慶長10年(1605)条にみえる「肩衝(かたつき)京ヤキ」が史料上の初出。以後,東山を中心に洛北・洛西にかけて広く陶窯が開かれ,18世紀後半には磁器が創始されて作風は広がり,明治期には陶磁器の輸出によって隆盛した。現在,京都は美術陶芸の根拠地となっている。
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…江戸中期の陶工。京焼中興の祖といわれる。中国(明)からの帰化人穎川氏の後裔といわれ,質商丸屋を営む奥田家に養子となり,旧姓穎川を号した。…
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[近世]
江戸時代に入ると各地の窯業に大きな変化が生じた。その契機は佐賀県有田における磁器の発生と,京都における色絵陶器(京焼)の焼造であって,江戸時代の窯業は瀬戸・美濃,有田,京都の3地域を中軸に展開した。1616年(元和2),李参平によって有田の白川天狗谷窯で,日本で初めての染付磁器の焼造が開始された。…
※「京焼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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