日本歴史地名大系 「会津郡」の解説
会津郡
あいづぐん
〔古代〕
「国造本紀」に会津国造はみえない。「和名抄」に「阿比豆」と訓を付す。「古事記」崇神天皇段に、大古命は高志道を進み、その子建沼河別命は東方十二道を進んで、互いに行合ったのでその地を相津というとあるのが地名の初見。養老二年(七一八)五月二日陸奥国の白河・
「続日本後紀」承和七年(八四〇)三月四日条に「陸奥国磨郡大領外正八位上勲八等丈部人麿戸一烟」に上毛野陸奥公を賜うとあり、「水左記」承暦四年(一〇八〇)一〇月一九日条に、会津郡・耶麻郡をもって一国となすことを請うとある。「和名抄」白河郡の注に「今分為大沼、河沼二郡」とある。これは会津郡の注の誤記であるから、耶麻郡の立郡は承和七年以前、河沼郡・大沼郡の立郡は承暦四年以後で、「和名抄」の注は後世追記されたものであろう。会津郡衙は現在のJR会津若松駅北方四・五キロの河沼郡
事」「畢番度玉前関還本土安積団会津郡番度還」とあり、会津の正丁が安積軍団に入団して多賀城(現宮城県多賀城市)に出征し、任期満了で故郷の会津への帰還を申請している。神護景雲三年(七六九)三月一三日「会津郡人外正八位下丈部庭虫等二人」に阿倍会津臣を賜っている(続日本紀)。会津郡の大領か少領であろう。延暦八年(七八九)六月三日北上川渡河作戦に失敗し、蝦夷の総帥阿弖流為に挟撃されて大敗したとき進士高田道成・会津壮麻呂らが戦死している(同書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報