会津郡(読み)あいづぐん

日本歴史地名大系 「会津郡」の解説

会津郡
あいづぐん

相津・安比豆・藍津とも書く。東は磐瀬いわせ郡・安積あさか郡・安達郡信夫しのぶ郡、北は耶麻郡を経て出羽国、西は越後国、南は下野国に接する奥羽山脈以西の地で、越後山脈飯豊いいで山地帝釈たいしやく山・那須なす岳に囲まれた地域。阿賀川(大川)只見ただみ川が北流して合流し、西流に転じて日本海に注ぐ。ルートは四方に延び、東へは甲子かつし峠・黒森くろもり峠・中山なかやま峠・土湯つちゆ峠、北へはおお峠、西へは鳥井とりい峠・八十里はちじゆうり越・六十里ろくじゆうり越がある。

〔古代〕

「国造本紀」に会津国造はみえない。「和名抄」に「阿比豆」と訓を付す。「古事記」崇神天皇段に、大古命は高志道を進み、その子建沼河別命は東方十二道を進んで、互いに行合ったのでその地を相津というとあるのが地名の初見。養老二年(七一八)五月二日陸奥国の白河・石背いわせ・会津・安積・信夫五郡を割いて石背国に昇格するが(続日本紀)、一〇年足らずで陸奥国に復帰する。これが郡名の初見。「万葉集」巻一四に「会津嶺の国をさ遠み会はなはば偲ひにせもと紐結ばさね」とある。

「続日本後紀」承和七年(八四〇)三月四日条に「陸奥国磨郡大領外正八位上勲八等丈部人麿戸一烟」に上毛野陸奥公を賜うとあり、「水左記」承暦四年(一〇八〇)一〇月一九日条に、会津郡・耶麻郡をもって一国となすことを請うとある。「和名抄」白河郡の注に「今分為大沼、河沼二郡」とある。これは会津郡の注の誤記であるから、耶麻郡の立郡は承和七年以前、河沼郡大沼郡の立郡は承暦四年以後で、「和名抄」の注は後世追記されたものであろう。会津郡衙は現在のJR会津若松駅北方四・五キロの河沼郡河東かわひがし郡山こおりやまの地に比定される。年不詳の多賀城跡出土木簡に「安積団解 □□番 事」「畢番度玉前関還本土安積団会津郡番度還」とあり、会津の正丁が安積軍団に入団して多賀城(現宮城県多賀城市)に出征し、任期満了で故郷の会津への帰還を申請している。神護景雲三年(七六九)三月一三日「会津郡人外正八位下丈部庭虫等二人」に阿倍会津臣を賜っている(続日本紀)。会津郡の大領か少領であろう。延暦八年(七八九)六月三日北上川渡河作戦に失敗し、蝦夷の総帥阿弖流為に挟撃されて大敗したとき進士高田道成・会津壮麻呂らが戦死している(同書)高田たかだ郷はないが道成は現在の大沼郡会津高田町の人、壮麻呂は会津臣の子孫であろうか。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報