徳川幕府末期の京都守衛を職務とする幕府官職。1862年(文久2)閏8月会津藩主松平容保(かたもり)が就任,一時前福井藩主松平慶永が職に就いたが,数ヵ月後再び松平容保に移り,大政奉還まで京都政局に重要な地位を占めた。本来,京都守衛は所司代の任務であったが,ペリー来航後,京都守衛は幕府の威権にかかわる重要な問題として浮上し,幕府は朝廷や諸大名の守衛不備の批判を避けるため,彦根藩,津藩を中心とする守衛体制をつくった。そのなかで,徳川家康から極秘に京都守護の家職を与えられたとする彦根藩主井伊直弼は,関白九条尚忠と結んで,攘夷派や雄藩大名の京都手入れを摘発した。しかし,1860年(万延1)3月の桜田門外の変後,京都の情勢は一変し,尊攘派が台頭し,また雄藩大名が朝廷の権威を背景に幕政に介入しはじめた。とくに,薩摩藩の島津久光が藩兵1000余人を率いて入京する事態は,幕府に強い衝撃を与え,雄藩に対抗する軍事力を京都に常駐させる必要に迫られ,また朝廷の雄藩に京都守護の任を命ずる動きに機先を制して守護職を設置したのである。京都守護職松平容保は所司代,京都見廻組,新撰組を指揮して,尊攘派の取締りにあたる一方,幕府の公武合体政策の責任者の一人として,朝幕間の橋渡しの役割をはたした。文久3年(1863)8月18日の政変,1864年(元治1)の禁門の変では,京都守護職の任を十分にはたし,孝明天皇の絶大な信頼を受けることになった。容保在任中の行動を記したものに《京都守護職始末》(1911。旧会津藩士山川浩著)がある。
執筆者:羽賀 祥二
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幕末期の江戸幕府の職名。1854年(安政1)ペリー来航に対応して、外国勢力と京都朝廷との直接交渉を断つため、彦根(ひこね)藩主井伊直弼(いいなおすけ)を京都守護の名目で上京させたのが先例であるが、60年(万延1)直弼が暗殺され彦根藩の地位が低下した。一方京都の政情不安が増大すると、幕府は京都守護職を制度化し、会津藩主松平容保(かたもり)を62年(文久2)これに任じた。朝廷や諸大名の監視、京都の治安取締りを主たる任務としたが、新選組を配下とし、治安出動の名目で流血の恐怖政治を展開した。64年(元治1)の第一次長州征伐のとき越前(えちぜん)福井藩主松平慶永(よしなが)にかわったが、まもなく松平容保が復帰し、王政復古まで続いた。役料5万石。
[鎌田道隆]
幕末期の江戸幕府の職名。1862年(文久2)閏8月に設置。役料5万石。大坂城代・京都所司代,京都・大坂・奈良・伏見各奉行の上位で,京都・近畿の治安維持にあたった。一時期を除いて会津藩主松平容保(かたもり)が任じられた。60年(万延元)の桜田門外の変による井伊家の権威失墜と,尊攘運動展開のなかで,井伊家があたってきた京都守護の機能低下を契機として設けられた。容保は尊攘激派に対し,当初宥和的だったが,63年8月18日クーデタ(8月18日の政変)を断行し,尊攘派弾圧に転じた。再任後弾圧を強化し,新撰組を使って池田屋事件など志士の弾圧を行った。67年(慶応3)12月の王政復古により廃止。
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…寺域の中山は往古からの埋葬所で,貴紳・文人らの墓が多い。また幕末の1862年(文久2)京都守護職松平容保の宿陣となり,明治維新の際に薩摩藩の包囲をうけたが,堂宇の損壊は免れている。寺宝の《一枚起請文》は法然の真筆と伝える。…
※「京都守護職」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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