日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐々木中沢」の意味・わかりやすい解説
佐々木中沢
ささきちゅうたく
(1790―1846)
江戸後期の蘭医(らんい)。陸奥(むつ)国西磐井(にしいわい)郡萩荘(はぎのしょう)村上黒沢字(あざ)片平(岩手県一関(いちのせき)市萩荘)肝煎(きもいり)弥左衛門の第3子。名は知方(芳)、初名は養三、字(あざな)は仲蘭、中沢、仲沢、蘭嵎(らんぐう)、国春と号す。一関藩医建部清菴(たけべせいあん)に学び、仙台で『西説内科選要』を読んで感服。1815年(文化12)江戸に出て、大槻玄沢(おおつきげんたく)に入門、馬場佐十郎、桂川甫賢(かつらがわほけん)(1797―1845)に蘭方を学んだ。1817年笠間(かさま)藩邸刃傷(にんじょう)事件の治療に参加。一方、松崎慊堂(こうどう)、佐藤一斎、安積艮斎(あさかごんさい)らに漢学を学んだ。玄沢の推薦で一関藩医となり、1822年(文政5)仙台藩医学館創設に際し外科助教となった。同年仙台藩最初の女囚の刑屍(けいし)を解剖、とくに生殖器を詳細に調べ記録した。また同年西日本に流行したコレラの病因を考え対応した。在職3年で退官し開業。経史詩文から書画まで多才で、知友は多い。弘化(こうか)3年4月1日没。墓所は一関市黒沢長泉寺。著作に『存真図腋(ずえき)』『壬午(じんご)天行疫考』『瘍科精選』『増訳八刺要』『和蘭局方』『迎春館遺稿』などがある。
[末中哲夫]
『仙台市史編纂委員会編『仙台市史4』(1951・仙台市)』