幕末期儒学思想界の大御所。名は信行、のちに坦。通称は幾久蔵(きくぞう)、のちに捨蔵。字(あざな)は大道。号は一斎、愛日楼(あいじつろう)、老吾軒、百之寮、風自寮。美濃(みの)国(岐阜県)岩村藩家老の二男に生まれ、藩主松平乗蘊(まつだいらのりもり)(1716―1783)の三男、後の林述斎(じゅつさい)と兄弟のごとくして育った。34歳で林家の塾頭となり、70歳で昌平黌(しょうへいこう)の儒官となる。一斎は若いときから陽明学の信奉者であったが、寛政(かんせい)異学の禁の波及効果の一つとして、藩籍を離脱して大坂に出て、中井竹山(なかいちくざん)に朱子学を学んだ。しかし、のちに林家の塾頭になったときでさえも、公人としては朱子学を講じはしたものの、個人的信念としてはあくまでも陽明学の信奉者であった。「陽朱陰王」などと陰口をたたかれもしたが、「公朱私王」とでもいいうべきものである。朱子学・陽明学を兼採した一斎の宋明(そうみん)性理学に関する学殖は当代随一であった。一斎門では天下の俊秀と講学できることも大きな魅力であった。幕末期の文教政策・人材養成の点で果たした一斎の功績はきわめて大きいものがあった。主著に『言志(げんし)四録』『愛日楼文詩』(1829)などがある。
[田公平 2016年5月19日]
『相良亨・溝口雄三他校注『日本思想大系46 佐藤一斎・大塩中斎』(1980・岩波書店)』▽『宮城公子編・訳『日本の名著27 大塩中斎・佐藤一斎』(1984・中央公論社)』
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(梅澤秀夫)
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江戸後期の儒者。名は坦,字は大道,通称は捨蔵。号は一斎のほか,愛日楼,老吾軒など。美濃岩村藩の家老職の家に生まれ,藩主の三男でのちの林述斎とともに儒学を学ぶ。また大坂の中井竹山にも学び,林家の門に入る。述斎が林家を継ぐとこれに師弟の礼をとり,1805年(文化2)には林家の塾長となって門生の教育に当たった。述斎没後の41年(天保12),幕府の儒官となり昌平黌で教えた。その学問は立場上表面は朱子学をとったが,陽明学の影響も強く受け,〈陽朱陰王〉と評された。気一元論,命数論,死生説などに特色がある。温厚篤実な性格で,その門下から安積艮斎,渡辺崋山,山田方谷,佐久間象山,横井小楠,大橋訥庵,中村正直らの多彩な俊秀を出した。著書に《言志四録》および《近思録》《伝習録》《論語》などの欄外書,《愛日楼文詩》《僑居日記》《俗簡焚余》《初学課業次第》などがある。
執筆者:衣笠 安喜
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1772.10.20~1859.9.24
江戸後期の儒学者。父は美濃国岩村藩家老の佐藤信由(のぶより)。初名は信行のち坦(たいら),字は大道,通称捨蔵,号は一斎のほかに愛日楼・老吾軒。19歳で出仕。藩主松平乗蘊(のりもり)の子でのち林家を継ぐ林述斎と親交を結ぶ。20歳で致仕して学問に専念,22歳で林家に入門,述斎に師事し34歳で塾長。70歳で昌平黌儒官。陽明学に傾きながら寛政異学の禁後の林家塾長の立場から朱子学を掲げたため,陽朱陰王との誹(そし)りもうけた。門下から佐久間象山(しょうざん)・渡辺崋山(かざん)らを輩出。主著「言志四録」。
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…〈甲冑ハ辱ム可カラザルノ色ナリ。人ハ礼譲ヲ服シテ以テ甲冑ト為サバ誰カ敢テ之ヲ辱シメン〉という佐藤一斎の言葉は,近世武士社会における礼儀尊重の精神を語るものである。武士【相良 亨】。…
※「佐藤一斎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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