鎌倉初期の武将。景時(かげとき)の嫡長子。通称は源太(げんた)。父とともに早くから源頼朝(よりとも)に仕え、1181年(養和1)には、その寝所の宿直(とのい)を命じられるほどの信任を得た。84年(元暦1)宇治川(うじがわ)の戦いには、頼朝から与えられた名馬磨墨(するすみ)に乗り、佐々木高綱(たかつな)と先陣を争ったといわれ、続く平氏追討戦では生田森(いくたのもり)(神戸市中央区)に奮戦した。85年(文治1)4月、頼朝に無断で左衛門尉(さえもんのじょう)に任官したとして帰東を禁止されたが、まもなく許されたとみえ、9月には源義経(よしつね)への使者として鎌倉より上洛(じょうらく)している。89年奥州征伐に従軍、翌年頼朝の上洛に随行した。のち、幕府を追われた父に従って西上の途中、正治(しょうじ)2年正月20日、駿河(するが)国狐崎(きつねがさき)(静岡市)で追っ手と交戦、討ち死にした。行年39。騎射、和歌に優れた。
[杉橋隆夫]
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(三田武繁)
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…義仲方では,志太義広を宇治方面に派遣して義経軍の入京を防ごうとしたが失敗,瀬田も破られ,義仲は京都から敗走の途中,近江の粟津で戦死した。このとき義経麾下(きか)の梶原景季と佐々木高綱が,乗馬のまま渡河し競ったという〈宇治川先陣争い〉の話は《平家物語》の有名な一節で,平曲《宇治川》にも語られている。なお,以仁王(もちひとおう)挙兵,承久の乱のおりの宇治川合戦も,元暦の戦についで名高い。…
※「梶原景季」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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