百科事典マイペディア 「宇治川の戦」の意味・わかりやすい解説
宇治川の戦【うじがわのたたかい】
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京都防衛上の要衝宇治川でいくたびか行われた戦い。なかでも1184年(元暦1)正月20日,木曾義仲,源義経両軍の間にかわされた戦闘がもっとも有名である。前年7月に入京した義仲は,11月クーデタを断行,後白河法皇に迫って源頼朝追討の院宣を出させたうえ,元暦1年正月10日には征夷大将軍に任ぜられた(一説に11日,征東大将軍)。しかし法皇の密旨を受けた頼朝の代官源範頼・義経が率いる大軍は,同月16日近江に入り,範頼は瀬田へ,義経は宇治に迫った。義仲方では,志太義広を宇治方面に派遣して義経軍の入京を防ごうとしたが失敗,瀬田も破られ,義仲は京都から敗走の途中,近江の粟津で戦死した。このとき義経麾下(きか)の梶原景季と佐々木高綱が,乗馬のまま渡河し競ったという〈宇治川先陣争い〉の話は《平家物語》の有名な一節で,平曲《宇治川》にも語られている。なお,以仁王(もちひとおう)挙兵,承久の乱のおりの宇治川合戦も,元暦の戦についで名高い。
執筆者:杉橋 隆夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
1184年(元暦元)1月,山城国宇治(現,京都府宇治市)で源義経と源義仲の間で行われた戦。83年(寿永2)11月の法住寺殿合戦によって,後白河上皇との対立を決定的とした義仲に対し,源頼朝は義経・範頼らによる追討軍を派遣。義仲は宇治川の橋を落として防御したが,義経の渡河作戦によって敗退,近江国粟津付近で討たれた。「平家物語」などに,義経指揮下の佐々木高綱と梶原景季が名馬にまたがり,渡河の先陣争いをしたことがみえる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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