日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐渡山田村善兵衛」の意味・わかりやすい解説
佐渡山田村善兵衛
さどやまだむらぜんべえ
(1805―1839)
江戸後期の義民。1838年(天保9)佐渡(さど)に起きた一国騒動の指導者である。佐渡国羽茂(はもち)郡上山田村(新潟県佐渡市南部)の小農善兵衛家に生まれる。38年、幕府は先例(将軍世継(よつぎ))に倣って巡見使を諸国に派遣した。このとき、数年来の凶作に対する対応を不満として平百姓たちが巡見使に対する強訴を計画、上山田村善兵衛が1国263か村のうち200余村の調印を得て、本文16か条と追訴状を巡見使に提出した。奉行所(ぶぎょうしょ)は徒党の禁を犯したとして善兵衛を召喚したが、善兵衛は応じなかった。善兵衛投獄に端を発した一揆(いっき)は、小木(おぎ)町問屋、全島各地の米屋など131軒を打毀(うちこわ)した。この一揆は役人方70余人、農民側90余人を処罰して終わった。善兵衛は江戸に送られ獄死した。
[田中圭一]
『『佐渡百姓共騒立付吟味落着一件留』(1966・佐渡高校同窓会)』