余部村
あまるべむら
山を境に鎧村の西に位置する。北は日本海に面し、豊岡から香住を経て因幡国に至る往来(但馬浜街道)が通る。西は山を境に二方郡の三尾分・和田村・久谷村など、南も山を境に同郡境村(いずれも現浜坂町)など。日本海の湾入部の奥には湊があり、この湊の周りに発達する浜、浜の南東方、長谷川流域の梶原・市午、浜の西方、西川下流右岸に形成される西、これらから北西に離れ、日本海を望む山腹にある御崎などの集落がある。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「あまるへ分」とみえ、当地には余部太殿様・余部殿様や山本筑前守殿・石見殿・はし兵衛殿などが居を構えていた。また西は「西たに」とみえ、同所には「にし太郎大夫殿」などが住し、御寺とよばれる寺院もあった。
近世の領主の変遷は香住村に同じ。慶長一八年(一六一三)の小出吉英所領目録(金井文書)に村名がみえ、高三三六石余、ただしこの高には鎧村分の高も含まれていたと考えられる。
余部村
あまるべむら
[現在地名]亀岡市余部町・河原町
東は河原町川(曾我谷川)が流れ、南は重利村、西は穴川村、北は並河村・宇津根村。村名は「あまぶれ」ともよばれる。西南に枝村新家村がある。
大堰川の河岸段丘上にあり、古くより集落のあった所と考えられ、村域内より弥生時代の石器・土器が多数出土した。風の口には狐塚とよばれる前方後円墳があり、余部の名称も律令制の余戸里の名残といわれる。
余部村
あまるべむら
府中にあった中世の村。比定地未詳。「宇佐大鏡」に「御笠東郷府中余部村田并在家畠地等」とあり、本領主大宰大監御春幸重より宇佐宮の大宮司宇佐公通が買得した。建久三年(一一九二)頃、国司により国衙領に準じた国役を課されたことから、公通は代々府国課役を勤仕したことはなく、買得以後は大菩薩常灯油・諸節斎会神用のみを納め、文治二年(一一八六)以後、度々の大府宣や施行の府宣(大宰府政所帖か)に任せて国司庁宣が出され不輸神領となっていたと反論した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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