兵庫県北東部の市。2005年4月旧豊岡市と出石(いずし),城崎(きのさき),竹野(たけの),但東(たんとう),日高(ひだか)の5町が合体して成立した。人口8万5592(2010)。
豊岡市南部東寄りの旧町。旧出石郡所属。人口1万1207(2000)。円山(まるやま)川支流の出石川中流域にあり,市街地と水田が広がる低地を山地が囲む。中世は山名氏の本拠地として,江戸時代には小出氏以来,城下町として但馬(たじま)の政治・経済の中心地であったが,鉄道路線からはずれたため,明治以降は豊岡に中心が移った。米作中心の農業が主産業であるが,兼業化が著しい。伝統産業が多く,白磁の出石焼,出石ちりめん,柳籠,出石皿そばなどがある。但馬一宮の出石神社がある。国道426号線,482号線が通じる。
執筆者:松原 宏
但馬国の城下町。織田信長の配下羽柴秀吉の但馬攻撃をうけて居城此隅(このすみ)山城を失った山名祐豊は1574年(天正2)出石に移って有子山に築城した。しかしこれも80年には落ち,山名は因幡に敗走した。この山城をふもとに移したのは1604年(慶長9)小出吉英(よしひさ)のときとされ,以後城下町が整備されたのであろう。城地は有子山を背に内堀を巡らし,藩主の居宅と三の丸に上級武士の屋敷を置き,その外に町人町が形成された。出石川と支流谷山川が外堀として町を囲み,これに沿って侍屋敷と寺が配置された。16年(元和2)小出吉英が沢庵のために再興した宗鏡(すきよう)寺もあり,名園で知られる。町方人口は,最高が1827年(文政10)の5455人,但馬では随一の町であった。桜井良翰の《但馬考》(1751),桜井石門の《但州叢書》(1850),桜井勉の《校補但馬考》(1922)と,藩学における桜井一門の但馬史に関する著作が注目され,近世但馬の中心出石の位置を示す。
→出石藩
執筆者:八木 哲浩
豊岡市北部中央の旧町。旧城崎郡所属。人口4345(2000)。円山川支流の大谿(おおたに)川沿いにある温泉町で,JR山陰本線が通じる。古くは但馬の湯と呼ばれ,奈良時代の発見と伝える。泉質は含塩化土類食塩泉,泉温40~75℃。湯量が少なく,御所湯,地蔵湯,一ノ湯,まんだら湯などの外湯の共同浴場が中心であったが,1950年代にボーリングが成功して内湯をもつ旅館が多くなり,現在は温泉集中管理,内湯・外湯併用方式による新しい温泉観光地となっている。付近に玄武洞,日和山,大師山などの観光地があり,明治後期の山陰本線の開通以後,京阪神方面からの湯治客が増加した。志賀直哉の《城の崎にて》《暗夜行路》の舞台となったことでも知られる。城崎町文芸館や文学散歩道などが整備されている。
豊岡市北西部の旧町。旧城崎郡所属。人口5751(2000)。南北に細長く,北は日本海に面し,中央部を竹野川が北流する。中心集落は日本海に面した竹野で,江戸時代から明治中期にかけて港町として栄えたが,JR山陰本線が通じて竹野駅が設置されると海運業は衰えた。農林漁業が主産業であるが,経営規模が零細で,人口は減少傾向にある。海中公園に指定されている竹野海岸は山陰海岸国立公園の景勝地であり,はさかり岩などの奇岩洞窟が有名で,サル賀島公園のある猫崎とともに多くの観光客が訪れる。旧豊岡市日和(ひより)山より但馬海岸有料道路が通じる(1995年無料開放)。国道178号線が通る。
豊岡市南東部の旧町。旧出石郡所属。人口5731(2000)。出石川上流域を占め,町域の大部分が山林で,標高500~800m級の山々が連なる。但馬縮緬(ちりめん)の本場で,江戸中期ころより北東部の資母(しも)地区を中心に機業が発達したが,1970年代後半の不況以後は低迷している。農業は米作中心だが,耕地が少なく経営規模は零細である。古くから良牛の産地として著名であり,畜産団地の整備が進み,養鶏,乳牛,肉牛の飼育も盛ん。中山に東経135°の子午線塔がある。国道482号線,426号線が通じる。
執筆者:松原 宏
豊岡市北部の旧市で,但馬地方の中心都市。1950年市制。人口4万7308(2000)。市域は日本海の海岸まで広がるが,JR山陰本線豊岡駅と円山川にはさまれた市街地は河口から12km内陸にあり,豊岡盆地の中央を占める。江戸時代は京極氏の城下町,明治以降は但馬の行政・産業の中枢として発展した。1925年の北但大震災で市街の3/4が焼失したが,これを機会に道路の整備が進んだ。しかし但馬全体の沈滞を反映して,市制施行以降の人口増加は緩慢である。特産のコリヤナギ(杞柳(きりゆう))の栽培と柳行李(やなぎごうり)の生産は京極氏の奨励に始まり,以後近年まで全国の大半を占めた。また第2次大戦前からバルカンファイバーかばんの生産が始まり,戦後はビニルを素材とした実用本位の旅行かばん,ビジネスバッグの日本一の産地となった。北郊にコウノトリ生息地(特天)があり,また北部海岸には景勝地の日和山,玄武洞(天)などがあり,隣接する城崎温泉とともに山陰海岸国立公園の一中心となっている。国道178号線,312号線などが通じ,豊岡駅で北近畿タンゴ鉄道宮津線が分岐する。
執筆者:小森 星児
但馬国城崎郡の城下町。1580年(天正8)羽柴(豊臣)秀吉の第2次但馬征伐後城主となった宮部継潤(けいじゆん)によって城下町づくりが開始された。この地に豊岡の名が付けられたのもこの時代である。神武山を城地とし,それを取り巻いて水濠内に侍町,その外側の円山川沿いに町屋が形成されていった。宮部氏のあと豊臣時代に4氏,江戸時代に外様小藩杉原氏が在城し,1668年(寛文8)の京極氏で定着した。(3万3000石,1726年以降1万5000石)。初期からの5町,とくに追手門前筋の宵田町,中町,下町の3町(他は小尾崎町,裏町)を中心に商家が軒を並べ,南の城下入口の新町場に特産柳行李の製造地区が生まれた。豊岡藩は1763年(宝暦13)大坂に骨柳(こうり)問屋,地元に指定仲買人を置いて領内産行李を統制し,大坂市場進出,正銀獲得をはかった。1822年(文政5)には城下に骨柳問屋,翌年産物会所を設立して専売制を強化した。こうして大坂の市場支配を脱して豊岡行李の販路は,幕末期には奥州にまで広がった。
執筆者:八木 哲浩
豊岡市南西部の旧町。旧城崎郡所属。人口1万8410(2000)。円山川中流域を占め,支流の稲葉川などが西部の蘇武岳や妙見山の山地を峡谷をなして東流する。円山川沿いにJR山陰本線,国道312号線が走り,江原駅を中心にして市街地が形成されている。古代には但馬の国府や国分寺,国分尼寺が置かれた地で,条里の跡も残っている。稲作中心の農業は兼業化が進行して衰退傾向にあるが,ブロイラーの飼育,神鍋(かんなべ)高原の野菜栽培は盛んである。工業では,木製ハンガーなどの木工業や一般機械工業が中心になっている。鐘状火山の神鍋山はスキー場として知られ,京阪神から多くのスキー客が訪れる。
執筆者:松原 宏
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
兵庫県北東部、豊岡盆地の中心を占める市。1950年(昭和25)城崎(きのさき)郡豊岡町と新田(にった)、五荘(ごのしょう)、中筋(なかすじ)の3村が合併して市制施行。1955年奈佐(なさ)、港の2村を編入。2005年(平成17)城崎、竹野(たけの)、日高(ひだか)、出石(いずし)、但東(たんとう)の5町を合併。円山(まるやま)川下流の沖積低地である豊岡盆地を中心とし、冬は雪、夏は雨が多く、晴天の日は少ない。盆地内は低湿のため開発は周辺から始まり、中心集落の形成は1580年(天正8)羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉の但馬(たじま)平定後、宮部継潤(みやべけいじゅん)が亀山(現在の神武(じんむ)山)に豊岡城を構えたことに始まる。江戸時代は豊岡藩の城下町として栄えた。1925年(大正14)の北但(ほくたん)大震災で旧市街地の70%を焼失したが、復興計画で区画整理を実施し、面目を一新した。
第二次世界大戦後は但馬文教府など県や国の地方機関が集中して但馬の中核都市となった。JR山陰本線と京都丹後鉄道宮豊線の分岐点、また国道178号と312号、426号、482号の合流点にあたり、国道483号も通じている。交通、経済の中心でもあり、県下最初の卸センターがある。1994年(平成6)にはコミューター空港であるコウノトリ但馬空港が開港している。特産物の柳行李(やなぎごうり)は藩主京極(きょうごく)氏の保護奨励で始まったが、第二次世界大戦後は本来の杞柳(きりゅう)製品にかわって、その伝統技術を生かした合成樹脂、合成皮革などの鞄(かばん)生産が発展、全国有数の生産量を誇る、鞄の町となっている。豊岡杞柳細工は伝統的工芸品に指定されている。また、南東部の山間地に豊岡中核工業団地も造成されている。円山川河口一帯は山陰海岸国立公園域で城崎マリンワールド、豊岡海域公園、海水浴場があり、すこし上流には柱状節理の奇勝玄武洞(げんぶどう)(国指定天然記念物)がある。特別天然記念物のコウノトリが県立コウノトリの郷(さと)公園および保護増殖センターで飼育されている。菓子の神とされる田道間守(たじまもり)を祀(まつ)る中嶋神社(なかじまじんじゃ)は全国製菓業者の崇敬を集め、室町時代の本殿は国の重要文化財。畑上(はたがみ)の大トチノキは国の天然記念物。面積697.55平方キロメートル、人口7万7489(2020)。
[大槻 守]
『『目で見る豊岡の文化史』(1965・豊岡市)』▽『『目で見る豊岡の明治100年史』(1969・豊岡市)』▽『『豊岡市史』全4冊(1981~1993・豊岡市)』
静岡県南西部、磐田郡(いわたぐん)にあった旧村名(豊岡村(むら))。現在は磐田市北部を占める地域。旧豊岡村は、2005年(平成17)福田(ふくで)、竜洋(りゅうよう)、豊田(とよだ)の3町とともに磐田市と合併。旧村域は、天竜(てんりゅう)川東岸と磐田原台地に挟まれ南北に細長い。北東部は赤石(あかいし)山脈南縁の低山地、丘陵が連なり、南西部は天竜川の沖積地。天竜浜名湖鉄道が通じる。米作、果樹・メロン・ネギ栽培、養豚、養鶏を行う。1970年(昭和45)村の中心部から浜松市に通じる浜北大橋の架橋で浜松市方面への交通の便がよくなり、楽器工場、金属工場が進出し、さらに、新平山工業団地が造成され、先端技術企業の進出もみられる。浜松市への通勤者も増え、水田の宅地化が進んだ。
[川崎文昭]
『『豊岡村百話』(1996・豊岡村)』
群馬県高崎市(たかさきし)の一地区。旧豊岡村。県史跡に指定されている中山道(なかせんどう)の一里塚(いちりづか)が高崎から1里、江戸から28里の地点にあり、南側の塚にはエノキの老木が現存している。北側の塚には浅間神社が祀(まつ)られている。また、同じく県史跡に指定されている茶屋本陣・オザシキノニワ(現、飯野(いいの)宅)がある。国道18号、406号が通じる。農家の副業として豊岡達磨(だるま)といわれる福達磨がつくられ、黄檗(おうばく)宗達磨寺(だるまじ)のだるま市(いち)は有名。
[村木定雄]
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…【青羽 真理子】
[かばん製造業]
日本におけるかばん製造は,明治維新前後に,皮革職人(馬具師,革羽織職人,袋物職人,革細工職人など)によって始められた。現在の製造業者は,東京,大阪,名古屋といった大都市と兵庫県豊岡市とに全体の9割以上が集中している。豊岡地区はもともと柳行李(やなぎごうり)の生産地であったが,ファイバーを材料とするかばんの製造を始めたのが基になって,今では皮革製品を除くあらゆる種類のかばんを製造している。…
※「豊岡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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