保田村(読み)ほたむら

日本歴史地名大系 「保田村」の解説

保田村
ほたむら

[現在地名]勝山市鹿谷しかだに町保田

きようヶ岳北東の山裾にあって、鹿谷川が九頭竜くずりゆう川に合流する位置にある。天文八年(一五三九)一〇月一八日の平泉寺賢聖院々領所々目録(平泉寺文書)に「保田村分」とある。同目録中にみえる公文名くもんめは現小字西九文名にしくもんめ・中九文名・東九文名に、池田名いけだめは現小字南池田みなみいけだ・中池田・東池田に、番頭名ばんとうめは現小字下番戸名・中番戸名・上番頭名にそれぞれ比定される(勝山市史)

だんヶ城に拠って一向一揆を指揮した島田将監は当村に住んで「保田殿」とよばれたと伝える(西念寺文書)


保田村
やすだむら

[現在地名]東城町保田

田殿たどの村の南西に位置する。中央部は帝釈たいしやく川の上流八頭やがしら川が東流して川鳥かわとり村に流れる。一方、村域西部の権現峠ごんげんだわより西の藤の木ふじのき長谷ながたにの水は長谷川となって西南の平子ひらこ(現西城町)へ流れる。集落は八頭川に沿って開けた狭長な盆地の周辺や、長谷川に沿う傾斜の急な谷間の狭い平地に散在する。

村名の表記は、元和五年(一六一九)の備後国知行帳や万治元年(一六五八)の地詰帳(「国郡志下調書出帳」所収)、天保郷帳には「安田」とある。


保田村
ほたむら

[現在地名]川西町大字保田

飛鳥川と曾我川の間に位置し、飛鳥川の東は唐院とういん村。応永六年(一三九九)の興福寺造営段米田数帳(春日神社文書)は「穂田」と記す。元禄郷帳ホタ、「大和志」はホダと読む。永仁二年(一二九四)大仏灯油料田記録に「ホタ 字五段田」とみえる。

慶長郷帳の村高は八六・二六石で御番衆領。元和元年(一六一五)郡山藩(水野勝成)領となり五三三・四二石。


保田村
ほうでむら

[現在地名]長浜市保田町

橋本はしもと村の東に位置し、南は口分田くもで村。宝田村とも記された。「玉葉」文治二年(一一八六)二月二日条に「近江国保田」とみえるのは当地あるいは現保多ほだ町付近のことか。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の保田村の言及

【有田[市]】より

…和歌山県西部,有田川河口にある市。1954年箕島町と保田,宮原,糸我の3村が合体して有田町と改称,56年市制。62年初島町を編入。人口3万4283(1995)。河口の積出港であった箕島,北湊が中心。中世には有田郡に勢力を張った湯浅党の本拠地であり,一族から出た明恵の遺跡が残っている。近世以来,有田川流域の南北の山地にミカンが栽培された。藩の奨励で盛んとなり有田ミカンとして江戸へも出荷され,その積出港として箕島,北湊は栄えてきた。…

※「保田村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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