俵石城跡(読み)たわらいしじようあと

日本歴史地名大系 「俵石城跡」の解説

俵石城跡
たわらいしじようあと

[現在地名]長崎市深堀町・大籠町

しろ(三五〇メートル)に築かれた中世の城跡。県指定史跡。史料上は深堀ふかほり城とも称され、深堀氏が関与したと考えられる。深堀弥五郎時仲は弘安の役の勲功賞として、正応二年(一二八九)肥前国神崎かんざき庄内の田地三町や屋敷・畠地を配分されたが(同年三月一二日「蒙古合戦勲功賞配分状」深堀文書、以下断りのない限り同文書)、弘安三年(一二八〇)八月下旬から九月中旬まで筑前博多番役(同年九月一二日武藤経資覆勘状など)、同一〇年一一月・正応二年五月肥前国役として姪浜めいはま(現福岡市西区)の警固番役を勤めた(正応二年五月晦日北条為時覆勘状など)。また正中の変が起きると元亨四年(一三二四)戸町とまち浦の高浜地頭深堀政綱は博多の鎮西探題のもとに馳せ参じた(同年一〇月一八日深堀政綱着到状)。建武新政府の成立に伴い、深堀時継・仲家・政綱らは足利尊氏のもとに馳せ参じ(元弘三年八月二〇日深堀時継着到状など)、建武元年(一三三四)六月政綱・明願らが高浜たかはま地頭職戸八とはち切杭きりくい(現野母崎町)の安堵をそれぞれ求めた(同年六月日深堀政綱申状など)。さらに南北朝期にも続いた警固番役は建武五年と暦応二年(一三三九)に戸町浦地頭の深堀明意(時通)、戸町浦一分地頭の深堀政綱がそれぞれ三〇日間を勤め(建武五年七月一二日深堀明意注進状など)、暦応二年には高木一分地頭の深堀時広が二〇日間の博多警固役を勤仕した(同年六月三日深堀時広仕注進状)。深堀を称する一族でこうした御家人役に応じる家が複数あったことが知られる。

建武三年三月二一日の玖珠合戦には深堀明意・時継・政綱らが参陣しており(深堀明意着到状など)、明意はまた一色道猷から兵粮米の調達のため有徳廻船の差押えを命じられた(同四年一〇月二五日源俊賢施行状)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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