小説家。明治25年8月11日、神奈川県久良岐(くらき)郡(横浜市中区)に生まれる。本名は英次(ひでつぐ)。父が訴訟に敗れて家運傾き、小学校を中退。店の小僧、官庁の給仕、商店員、ドックの船具工など転々とする。このころについては、のちに『かんかん虫は唄(うた)う』(1930~31)、『忘れ残りの記』(1955~56)に描かれている。1910年(明治43)の暮れに上京、下町に住んでしばらく会津蒔絵(まきえ)の工芸家の徒弟となり、また雉子郎(きじろう)の名で川柳(せんりゅう)を投稿、井上剣花坊(けんかぼう)、伊上凡骨(ぼんこつ)らを知り、柳樽寺(りゅうそんじ)川柳会同人となって、人間観察を深めるが、同時に川柳の限界も知る。21年(大正10)講談社の諸雑誌の懸賞に応募、『縄帯平八』『馬に狐(きつね)を乗せ物語』『でこぼこ花瓶(かびん)』などが入選した。翌年『東京毎夕新聞』記者となり、同紙に『親鸞記(しんらんき)』(1923)を無署名で連載したのを機に、しだいに文運が開け、『キング』創刊号から初めて吉川英治の名で『剣難女難』(1925~26)を発表するに及んで、注文が殺到するようになる。このころ、また『少年倶楽部(くらぶ)』に『神州天馬侠(てんまきょう)』(1925~28)を発表するが、これは『竜虎八天狗(りゅうこはちてんぐ)』(1927~31)、『月笛日笛』(1930~31)、『天兵童子(てんぺいどうし)』(1937~40)などと続く、彼の少年少女小説の傑作の最初のものであった。ついで、『大阪毎日新聞』紙上を飾った『鳴門秘帖(なるとひちょう)』(1926~27)で、ようやく大衆文壇の花形作家となって活躍が始まる。
初めは、『江戸三国志』(1927~29)、『万花(まんげ)地獄』(1927~29)、『貝殻三平』(1929~30)など伝奇性に富んだ、空想力豊かな作品が多かったが、1931年(昭和6)ごろからしだいに傾向を改め、『檜山(ひのきやま)兄弟』(1931~32)や『松のや露八』(1934)のように幕末・維新を背景にした新しい作品、また『あるぷす大将』(1933~34)などユーモア現代小説と模索を続けたが、やがて『宮本武蔵(むさし)』(1935~39)に至って、はっきりと一つの方向を確立する。それは、大衆文学の本質である娯楽性をもちながらも教訓的な側面を強めた作風で、剣禅一如の境地を求める求道者としての武蔵像の造形には、作者の夢が託されていた。その後、『新書太閤記(たいこうき)』(1939~45)、『三国志』(1939~43)を経て、第二次世界大戦後の『新・平家物語』(1950~57)や『私本太平記』(1956~59)に至り、国民文学としての構想を明らかにした。
吉川英治の文学理念は「大衆即大智識(ちしき)」といったことばからもうかがわれるように、大衆とともに生き、大衆の夢にこたえようとしたところに特色をもつ。しかも時代把握の仕方には、古い歴史の問題を今日の事象に照らして考え、現在生起しつつあるできごとを解く鍵(かぎ)を歴史に学ぶという認識が働いており、それが生き生きとした大衆性を生んで、広く読者の共感をよんでいる。1960年(昭和35)文化勲章を受章。昭和37年9月7日没。その遺志により吉川英治賞および吉川英治文学賞が設定された。1944年から移り住んだ東京・青梅(おうめ)市の旧邸内に、吉川英治記念館が建てられている。
[尾崎秀樹]
『『決定版 吉川英治全集』53巻・補巻5(1979~84・講談社)』▽『尾崎秀樹著『伝記吉川英治』(1970・講談社)』
大正・昭和期の小説家
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大正・昭和期の代表的大衆小説家。本名英次(ひでつぐ)。神奈川県久良岐郡中村町(現,横浜市)生れ。父は早くから横浜で牧場経営をはじめ,いくつかの事業に手を染めるがいずれも失敗し,訴訟事件で敗けたこともあって家は傾き,英治もそれに伴って浮沈のはげしい生活を体験,学校を退いて各種の職業を転々とする少・青年期をすごした。横浜船渠(ドツク)の船具工当時事故で負傷し,それを機会に志を懐いて上京,金属象嵌師の徒弟などをしながら,しだいに文学の世界に接近,雉子郎の号で句作に努め,《大正川柳》の編集に従う。22歳のとき《講談俱楽部》の懸賞に応じて処女作《江の島物語》を投稿,第1席となった。毎夕新聞社に入り,《親鸞記》ほかを連載したが関東大震災で辞し,講談社系諸雑誌にいくつもの筆名で作品を発表,《キング》の創刊号(1925年1月)から連載した《剣難女難》以後,吉川英治を名乗った。初期の作品は《神変麝香猫》《鳴門秘帖》など伝奇性に富む時代ロマンが多く,大衆文学の草創期を飾ったが,1930年ころから新たな模索に入り,《かんかん虫は唄ふ》《松のや露八》を経て《宮本武蔵》(1936-39)に到り,国民文学へ向かう可能性を示した。戦中から戦後へかけて《新書太閤記》《三国志》《新・平家物語》《私本太平記》をまとめ広く読まれた。60年に文化勲章受章。62年に70歳で没した。青梅の旧居は記念館として77年開館された。
執筆者:尾崎 秀樹
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1892.8.11~1962.9.7
大正・昭和期の小説家。本名英次(ひでつぐ)。神奈川県出身。小学校中退後,職を転々としながら川柳・小説を雑誌に投稿。関東大震災後文筆専業となり,1926~27年(昭和元~2)の伝奇的時代小説「鳴門秘帖」で地位を確立。作風はしだいに社会的背景の重視と人間像の追究に傾き,「宮本武蔵」(1935~39)は広く求道の書としても読まれた。以後「新書太閤記」「三国志」「新・平家物語」「私本太平記」などを発表。60年文化勲章受章。没後,吉川英治国民文化振興会が設立され,吉川英治賞(文化・文学)が制定された。東京都青梅市の旧居は記念館となっている。
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…13年帰国と同時に川柳活動に入り井上剣花坊の柳樽寺川柳会に加入。当時まだ新風の少ない川柳に嫌気がさしたが,吉川英治(柳名,雉子郎)に〈あの壁を僕らで破るのだ〉といわれ,川柳に一生を賭ける決意をする。29年《国民新聞》の選者となり国民川柳会を結成,34年に現在の川柳研究社と改名,以後詩性派と伝統派の接点として後進の育成に努める。…
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[主要作品と作家]
大衆文学の歴史は,10年ないし15年のサイクルで現代にいたっている。大正末年から昭和初年代にいたる第1期は草創時に当たり,中里介山の《大菩薩峠》を先駆として,白井喬二《富士に立つ影》《新撰組》,前田曙山《落花の舞》,国枝史郎《蔦葛木曾桟(つたかずらきそのかけはし)》,大仏(おさらぎ)次郎《鞍馬天狗》《赤穂浪士》,三上於菟吉(おときち)《敵討日月双紙》,行友李風(ゆきともりふう)《修羅八荒》,下村悦夫《悲願千人斬》,吉川英治《鳴門秘帖》,土師清二《砂絵呪縛(すなえしばり)》,子母沢寛《新選組始末記》,佐々木味津三《右門捕物帖》《旗本退屈男》,群司次郎正《侍ニッポン》など時代小説の代表的作品が相次いで発表され,伝奇ロマンにひとつの時代的特色を見せた。その一方で菊池寛《真珠夫人》《第二の接吻》,久米正雄《破船》,吉屋信子《海の極みまで》などの通俗小説が婦女子の心をとらえ,乱歩の《二銭銅貨》にはじまる本格推理や,大下宇陀児,甲賀三郎の長編が探偵小説ファンに愛読される。…
…剣豪宮本武蔵を主人公にした,吉川英治の長編小説。1935‐39年東京・大阪の両《朝日新聞》に連載。…
※「吉川英治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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