八屋村(読み)はちやむら

日本歴史地名大系 「八屋村」の解説

八屋村
はちやむら

[現在地名]豊前市八屋

赤熊あかぐま村の西、周防灘に面した遠浅の海岸線に沿って集落が形成され、中津街道が通る。正保国絵図では西隣の松江しようえ浦と八屋浦は海路で結ばれ、街道上には当村の東の入口に一里塚が描かれている。中津街道は当村西で海浜沿いに進む下往還と南東に進む上往還(宇佐勅使街道・豊後往来とも)に分岐した。また当村から南の求菩提くぼて山へ至る道があった。応永三五年(一四二八)以後とみられる年月日不詳の某書状(永弘文書/大分県史料五)に「八屋のほうふく寺」とみえる。現在、当地には黄檗宗宝福ほうふく寺があり、同寺は江戸期に再興されたと伝えられることから(築上郡志)前記の「ほうふく寺」はその前身かもしれない。天文一三年(一五四四)閏一一月二一日の御料所山国三ヶ郷当御年貢引付(友枝文書/豊前市史 文書資料)によれば、溝部みぞべ郷・仲間なかま郷・しもノ郷(現大分県下毛郡)の年貢四四石八斗一升六合は「八屋浦」で収納され、船で運び出すことになっている。「大日本地名辞書」が引く「耶蘇天誅記」に同一七年「葡萄牙諳厄利亜三十一人、豊前八屋浦に泊せり、其徒六人投化す」とある。弘治三年(一五五七)五月一八日、八屋・山田衆と城井衆との合戦があり、八屋衆七〇人ほどが手負いとなったという(「某覚書」永弘文書/大分県史料六)

八屋村
やつやむら

[現在地名]倉吉市八屋

伊木いぎ村の南、現東郷とうごう町と隔てる山稜西麓に位置する。河村かわむら郡に属し、拝領高は一一三石余。宮脇氏の給地(給人所付帳)。宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)によれば朱高一二三石余、高一六七石余、うち畑高一六石余、免六ツ。悪田加損米一二石、藪役銀一〇匁、棟数二軒・役高四〇人。男四五・女三二で、ほかに禅門一・神職家内一一。

八屋村
はちやむら

[現在地名]荻町柏原かしわばる

正保郷帳では柏原郷に属し、田方なし・畑方二一石余。万治元年(一六五八)には田高なし・畑高二二石余・屋敷高七斗余とある(荻町史)。弘化物成帳では柏原組のうち、村位は下、免二ツ、田はなく、畑三九石余(九町三反余)・屋敷一石余(一反余)で、開田はなく、開畑一石余(二町六反余)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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