八戸村
やえむら
[現在地名]佐賀市鍋島町大字八戸、八戸一丁目・同二丁目・末広一丁目・下田町など
村域がかなり広く、南部を長崎街道が通るため、街道に沿って東西に八戸宿を形成した。城下への西からの出入口で、商人や職人が住み、郷宿として独立するようになった。だが、もともとは八戸村に属していたので、寛政元年(一七八九)に幕府巡見使が城下町名を尋ねたのに対して、八戸宿(町)は含まれていない。
なお八戸宿の西に接する扇町も八戸村に属する。
八戸村
やとむら
碁盤ヶ岳(七一六・三メートル)の東側山間部に位置し、東は願寺、南は宇藤木村(現弥生町)。江戸時代は佐伯藩領。慶長二年(一五九七)の八戸村検地帳(佐伯藩政史料)によると高一〇三石余・反別一六町三反余、うち田数二反余・分米二石余、畑数一五町七反余・分米九五石余、屋敷数四反余・分米四石余。田のうち上田一反余・中田二畝余・下田四畝余、畑は上畑七町余・中畑二町五反余・下畑五町四反余、屋敷数二五、分付百姓の記載もある。
八戸村
はちのへむら
[現在地名]八戸市
柏崎四丁目・
城下一―四丁目・
糠塚・
沼館・
沼館一―四丁目・
沢里・
根城一―二丁目、柏崎一丁目・
根城三丁目の大半、根城四丁目の半分、柏崎二―三丁目・根城七丁目・
内丸一丁目・同三丁目の各一部
八戸城下の南西と北東に二分される。南西方面は沢里村・糠塚村の地域で、大半が丘陵地となり、西端には白山川(沢里川)の小渓流が北流し、小渓谷を形づくる。
八戸村
やとむら
[現在地名]余呉町八戸
下余呉村・中之郷村の西、余呉湖北岸に近い山村。応永三年(一三九六)四月一七日の京極高詮書下(下坂文書)に「余呉庄内菅並・八戸・月別」とあり、高詮から下坂豊前守に与えられている。北境の神明山とその西の大杉山には天正一一年(一五八三)賤ヶ岳の戦で羽柴秀吉方の木村隼人・山路正国・大金藤八郎らの砦があったと伝える。慶長七年(一六〇二)の検地帳(桐畑文書)によれば田一一町二反余・分米一六九石余、畑四町六反余・分米二六石余、屋敷二反余・分米二石余、名請人は当村五四のほか河並村一七・中之郷村六・坂口村三。寛永石高帳では幕府領。以後甲斐甲府藩領(元禄郷帳)・幕府領(天明村高帳)・山城淀藩領(天保八年郷帳)と変わる。
八戸村
やとむら
[現在地名]桜江町八戸、那賀郡旭町山ノ内
長谷村の南東、八戸川上流域および同川支流家古屋川流域の山間に立地。河谷に仕田原・勝地・八戸・八戸東などの集落が散在する。郷帳類では長谷村に含まれているが、津和野藩の地方支配上では元禄七年(一六九四)から一村として扱われていた(郡村誌)。天保六年(一八三五)の津和野御領分万書留記(加登屋嘉兵衛旧蔵文書)に八戸村とみえ、高五一八石余。明治四年(一八七一)の万手鑑によれば古高二四五石余、寛永一四年(一六三七)の検地高四二五石余、惣高五一八石余の反別九九町七反余、家数一四二(うち本百姓八七)・人数六三五、牛八五、紙漉船四一。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 