八田知家(読み)はったともいえ

改訂新版 世界大百科事典 「八田知家」の意味・わかりやすい解説

八田知家 (はったともいえ)

平安時代末期~鎌倉時代前期の武将生没年不詳。宇都宮宗綱の子。藤原氏。常陸国新治(にいはり)郡八田(現,茨城県筑西市八田)を本拠とし,小田(おだ)氏茂木(もてぎ)氏宍戸(ししど)氏中条(ちゆうじよう)氏などの祖。四郎を称し,武者所(むしやどころ),右馬允(うまのじよう),左衛門尉,筑前守に任ぜられた。《保元物語》にその名が見え,源平争乱には源範頼のりより)に従った。1181年(養和1)志田義広(しだよしひろ)の軍勢との戦いに参加するなど源頼朝に重んぜられた。鎌倉幕府が成立すると,89年(文治5)以前に常陸国守護に任ぜられる。同年奥州藤原氏との戦いには東海道大将軍の一人として活躍した。常陸国では常陸大掾(だいじよう)氏の勢力が強く,知家はその勢力削減をはかるとともに自己の勢力拡大をはかったが,守護職は鎌倉時代を通して小田氏,宍戸氏に継承されたものの,国衙を拠点とする大掾氏はその力を維持しつづけた。
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朝日日本歴史人物事典 「八田知家」の解説

八田知家

生年:生没年不詳
平安末・鎌倉初期の武士。下野国(栃木県)出身。八田宗綱の子。源義朝の子との伝承もある。四郎,武者所を称す。寿永2(1183)年,志太義広を小山氏の指揮のもとに倒し,平家追討では源範頼に従ったが,在京中に右衛門尉に任官したため源頼朝の怒りを買った。その後復権し,有力御家人として活躍。奥州合戦(1189)では東海道軍の大将軍を務めた。正治1(1199)年将軍源頼家の親裁が停止されると,13人の宿老のひとりとして合議制に加わった。鎌倉の邸宅が京都からの使者の宿所にしばしば充てられている点は,知家が京都の文化にも通じていたことを窺わせる。筑後守,常陸守護などを歴任

(高橋秀樹)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「八田知家」の解説

八田知家 はった-ともいえ

?-? 平安後期-鎌倉時代の武将。
宇都宮宗綱の子。一説に源義朝の子。常陸(ひたち)(茨城県)八田を本拠とする。源頼朝の挙兵に応じ,平家追討では源範頼(のりより)にしたがう。常陸守護となり,文治(ぶんじ)5年(1189)の奥州攻めで東海道大将軍をつとめる。2代将軍源頼家のとき宿老として幕政にくわわった。子孫は常陸小田に本拠をうつし小田氏を称した。通称は四郎。

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世界大百科事典(旧版)内の八田知家の言及

【小田氏】より

…中世の常陸国の豪族。下野の豪族宇都宮宗綱の次子八田知家を祖とする。知家は父宗綱の所領の一つである,現在の茨城県下館市八田を本拠とし八田武者所(はつたむしやどころ)と称した。…

【小田城】より

…茨城県つくば市小田にあった。小田氏は下野の豪族宇都宮氏の庶流八田知家が,筑波山麓の小田へ進出して小田氏を称したのに始まる。知家は常陸国守護に任じられ,在来の常陸平氏の一族の勢力を圧倒し,常陸南半に勢力を扶植した。…

※「八田知家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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