改訂新版 世界大百科事典 「中条氏」の意味・わかりやすい解説
中条氏 (ちゅうじょううじ)
武蔵国中条保(埼玉県北部)を本領とする中世武家。武蔵七党横山党の流れをくみ中条保を領した義勝房法橋成尋(異称中条法印)の子家長が,下野国の雄族八田知家の養子となり,藤原姓中条氏の祖となった。家長は源範頼・義経の平氏追討軍にも名を連ねているが,その活躍はむしろ平時の政務において知られる。1225年(嘉禄1)創設された評定衆の一員として36年(嘉禎2)没するまでその任にあったほか,幕府の指令を伝達する特使としてたびたび上洛。おそらくはそうした功によって,三河国高橋荘地頭職を与えられた。家長の孫時家は52年(建長4)に中条保内水田1町を上野国長楽寺に寄進。その寄進状には寄進地の農業経営には中条氏があたることが記されているので,本領の経営は存続したと思われる。しかしその活動の中心は時家あるいはその子頼平のころから三河国高橋荘内の挙母(ころも)郷に移ったようである。荘内猿投(さなげ)神社には74年(文永11)の頼平の寄進状が残されており,中条氏居館址といわれる金谷城址とともに中条氏移住の傍証となろう。室町時代の中条氏は幕府奉公衆の一員として活躍したが,1432年(永享4)満平が足利義教の富士見供奉で失態を演じ一時高橋荘を追放され,40年還付されたものの,93年(明応2)井田野合戦で松平氏に敗れて以後は衰退し,1561年(永禄4)織田信長に滅ぼされた。
執筆者:外岡 慎一郎
中条氏 (なかじょううじ)
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報