六浦庄(読み)むつらのしよう

日本歴史地名大系 「六浦庄」の解説

六浦庄
むつらのしよう

金沢かなざわ一帯にあった荘園。「和名抄」の鮎浦ふくら郷が転じて六浦郷となり、ここを中心として荘園化したものらしい。「吾妻鏡」宝治元年(一二四七)六月六日条に、直前の宝治合戦で一族ほとんどが滅ぼされた三浦氏らの与党人が「武蔵国六浦庄内」に群居しているとの情報が入ったので、幕府領主北条(金沢)実時らに命じて彼らを追捕させようとしたとみえる。荘園としての初見であるが、本家・領家などの名は不明である。これより先の建保元年(一二一三)五月の和田合戦で、幕府の侍所別当和田義盛にくみして殺された武士のなかに「六浦三郎、同平三、同六郎、同七郎」らの名がみえる(「吾妻鏡」同月六日条)。あるいは彼らが六浦庄を支配していた領主たちで、その滅亡後当庄は北条氏の所領になったものかと思われる。

荘内には鎌倉の外港として栄えた六浦津があり、対岸の房総半島との交通に利用されただけでなく、六浦の「三艘さんぞう」の地名は来泊した唐船三艘にちなんでつけられたとか、当地の猫はその頃の舶来の猫で「金沢猫」とよばれる珍しい種類であるなどと伝えられるように(風土記稿)、海外貿易の基地でもあった。

荘内には六浦郷・金沢かねさわ郷・蒲里谷かまりや郷・富岡とみおか郷があった。

六浦郷は六浦本郷ともよばれ、現金沢区六浦むつうら・六浦町・瀬戸せと一帯で、湾入した平潟ひらかた湾沿いに港湾としての機能を果していた。正和二年(一三一三)二月一九日「六浦郷関屋坊」また「関屋房」において書写した旨の聖教奥書(県史二)があるので、すでにこの頃、関が置かれていたものかもしれない。北条氏の滅亡後、六浦庄を含む久良岐くらき郡全体は足利尊氏の手に帰し(年未詳「足利尊氏・同直義所領目録」県史三)、同郷は足利氏から重臣上杉氏に与えられた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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