改訂新版 世界大百科事典 「和田合戦」の意味・わかりやすい解説
和田合戦 (わだがっせん)
1213年(建保1)5月2,3両日,鎌倉を舞台に和田義盛と北条義時によって行われた合戦。この年2月,源頼家の遺児千寿を擁して大将軍となし,義時を除こうとする泉親衡(いずみちかひら)の謀叛が露見した。安念法師の白状に基づき,一味の者がつぎつぎと逮捕されたが,その中に義盛の子息義直・義重,甥の胤長が含まれていた。義盛は和田一族をあげて彼らの赦免を懇請したが,胤長だけは赦されず,一族の面前を縛縄のまま陸奥に流罪,鎌倉の彼の屋敷も,慣例に従っていったんは義盛に与えられたものの,間もなく没収され義時が拝領してしまった。義時による重ね重ねの挑発に,義盛もついに意を決して挙兵の準備を急いだが,同族の長にして盟友と頼んだ三浦義村が直前になって相手に寝返ったため,予定を変更,5月2日,地方からの同志の到着を待たず,150騎をもってにわかに蜂起した。和田勢の攻撃は鋭く,義盛の子朝比奈義秀に打ち破られた大倉の幕府は,一宇を残さず焼亡し,将軍実朝らはかろうじて避難するありさまだった。しかし義時側の対策もかねて怠りなく,兵力に劣る義盛勢はしだいに後退し,由比ヶ浜に追い詰められた。翌日,相模,武蔵の同盟軍が到着したことにより,3000騎に勢力を盛り返して奮戦したが,結局は乱軍のうちに敗れ,一族親類ともに全滅した。両日の合戦注文によると,和田方では和田一族13人,横山党31人,土屋一族10人,山内一族20人,渋谷一族8人,毛利一族10人,鎌倉党13人,他37人が討死し,28人が捕虜となり,幕府・北条方では50人が戦死,負傷した御家人は1000余人に達するという大衝突だった。戦後,義時は従来の政所別当にあわせて義盛の保持していた侍所別当をも兼任し,幕政の実質的主宰者としての地位を強化した。これをもって執権政治の確立と評価する説もある。また,同じく論功の結果彼に与えられた相模国山内荘は,鎌倉の後背地として重要な意味をもち,北条政権の基礎を固めるうえで大いに益があった。
執筆者:杉橋 隆夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報