内保村(読み)うちぼむら

日本歴史地名大系 「内保村」の解説

内保村
うちぼむら

櫛比くしひ庄内に成立していた村。現内保・本内もとうち滝上たきえ堀腰ほりこし鑓川やりかわ長井坂ながいざか一帯に比定される。村名は櫛比保の保を継承したとみられる。

延文三年(一三五八)一一月四日の左衛門尉信氏寄進状案(総持寺文書、以下同文書は省略)に「櫛比庄内保村」とみえ、村内の本内の田一段四が総持寺に寄進されている。以後、貞治六年(一三六七)に「うちほむらほりこし」の田二段(同年二月九日長谷部瑠璃若寄進状)と義勝知行分二段(同年九月一四日長谷部義勝寄進状)と義勝より六貫文で買得した一〇〇刈(同年一一月一〇日尼見祐寄進状)、応安二年(一三六九)には「ほりこし」「よしかわ」「なかゑむら」各一町のほか三段(同年一〇月三日長谷部宗悟寄進状など)が長谷部氏より総持寺に寄進されている。


内保村
うちぼむら

[現在地名]浅井町内保

南東で草野くさの川を挟んでおち村に対する。北部の狐塚きつねづかには古墳がある。野々宮ののみや神社(現八日市市)の大般若経巻第二〇七の奥書には貞治三年(一三六四)九月日の日付とともに「浅井西郡湯次庄内保郷蓮上寺」と記されている。また応永二一年(一四一四)九月六日の細川満元施行状(石清水文書)によれば「大原庄内(中略)内保七町春近」が山城石清水いわしみず八幡宮雑掌に付されている。


内保村
うちほむら

[現在地名]阿山町内保

槙山まきやま村の東方に位置し、北は近江国。全村ほとんど山地であるが、標高二〇〇メートルほどの丘陵が北隣の近江国甲賀こうが郡に続く。道路は近江の三雲みくも(現甲西町)より南進し、当村を通り、西湯舟にしゆぶね村に出て、通称伊勢道に合する道が古い。また玉滝たまたき村の焼尾やきおを越えて千貝せがい村に出る道も焼尾越とよばれて古い。内保の名称は延喜八年(九〇八)内保庄として立券されており(文永六年一二月「大法師円乗重陳状案」東大寺蔵倶舎論第一巻大義抄裏文書)、村としては保安四年(一一二三)の明法博士勘状案(東大寺文書)に現れる。


内保村
うちぼむら

[現在地名]門前町内保

本市もといち村の東、はつヶ川中流南岸の平地と河岸段丘および山地に立地。垣内に石坂いしさか貝喰かいばみ気屋けやつぼうち伏坂ふつさか根子屋ねごやがある。中世櫛比くしひ庄に成立した内保村の村名を継承。正保郷帳では高三七一石余、田方一六町三反余・畑方八町四反余、新田高二九石余、田方一町八反余・畑方一反余。承応三年(一六五四)の村御印の高四〇一石余、免四ツ(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高四二八石、免五ツ、小物成は山役一一四匁・苦竹役五匁、鳥役一匁(出来)、漆役二匁、鍛冶炭役五匁(出来)であった(三箇国高物成帳)


内保村
ないほむら

[現在地名]択捉えとろふ郡留別村大字内保

明治初年から大正一二年(一九二三)までの村。ナイボとも訓じる(大小区画沿革表)老門おいと村の西に位置し、北はオホーツク海。中央部で北にアトサノボリ山(阿登佐岳、一二〇五・八メートル)半島状に突き出ており、半島の付根キモンマ沼、その南に択捉島中心部の高山から流れでるトキテ川・ベンケベツ川などが流入する内保沼があり、同沼からは内保川が流出してオホーツク海の内保湾に注ぐ。河口に内保港がある。明治初年にナイホなどを包含してナイボ村が成立。「千島国地誌提要」によれば、択捉郡は当村一村で、戸数アイヌ一三、人口男三一・女三二、寄留人は平民男二四。同八年(一八七五)村名表記が内保に改まる(根室支庁布達全書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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