内海村
うちうみむら
[現在地名]宮崎市内海
加江田村・折生迫村の南に位置し、東は日向灘に面する。那珂郡に属し、南は伊比井村(現日南市)。南北に鵜戸街道が通り、日向灘には内海湊がある。江戸時代には折生迫村と同様に加江田村に含まれ、村内は大内海・小内海・野島に分れていた。
〔中世〕
応永三一年(一四二四)島津久豊は大軍を率いて油津(現日南市)に布陣し、伊東祐安の拠点とする加江田城と峠(内海峠)城を攻略するため、海路鵜戸崎(現日南市)・小内海を経て内海へ至っている(「西藩野史」、「島津義天譜」旧記雑録)。峠城跡は折生迫との境付近の山頂にある。文明一二年(一四八〇)紫波洲崎城が島津忠昌によって攻略されたため、佐土原(現佐土原町)にいた伊東祐国は加江田に大軍を率いて押寄せ島津勢と合戦となり、島津勢は敗退し大内海・小内海を経て飫肥へ退いている(日向記)。天正六年(一五七八)日向が島津氏の領国となると、内海は島津義弘の料所となった。「上井覚兼日記」によると、天正一三年一一月三日加江田の「ちふくの湊」(知福湊)に義弘料所の内海の船が難破して打上げられ、二〇日覚兼は難破船と積荷の処置を内海仮屋の役人に問合せている。同一四年八月一八日、長宗我部元親から大船一艘を贈られた島津義久は大船の内海への回漕を命じ、覚兼に日州表の諸浦より水主の準備をさせている。
内海村
うつみむら
[現在地名]鳥取市白兎
伏野村の西、内海谷(または御熊谷)の口にあり、北は日本海に面する。東西は山稜が海に突出し、東の岬を宇津見が鼻または鐘が崎といい、かつての高草・気多両郡境であったと伝える。西の岬は江戸時代には正木が端といい、その沖にある島をコウ島とよんだ。同島を「古事記」大国主神段の白兎説話にいう「気多の前」と「淤岐の島」に比定する説もある。「法隆寺本古今目録抄」には「因幡国気多郡大原郷、宇都美之里」の「能曾姫」が聖徳太子供養のため生絹・綿・御衾を調進したことが記される。古代・中世には気多郡に属していた。海岸近くを東西に伯耆街道が通る。東は古恵牟太坂または恋坂・石分坂という峠を越えて伏野村に通じ、西は杖衝坂を越えて小沢見村に至る。東西の岬の中間はかつて岩石に遮られて南側は湖水となっていたが、亀井茲矩が岩石を切開いて水を海に落し水田とした。こののち南にあった民家が海岸近くに移転して新たに一村をなしたと伝える(因幡志)。
内海村
うちのうみむら
[現在地名]安浦町内海
原畑村の北東に位置し、同村から流れ込む野呂川、北の赤向坂村より流れる赤向坂川を合して南流する中畑川、西南の中切村より流れ出る中切川の三川が村域東方で合する。北・西・南の三方を標高二〇〇―三〇〇メートルの山地に囲まれるが、中央東部は三川のつくりだす沖積平地が開け、東方のみわずかに三津口湾に面する。
村内にあった西福寺旧蔵の沙弥円教施入摺仏墨書の一枚に「黒瀬村内海方正慶元年□田検注支配事 合」とあり、正慶元年(一三三二)頃内海の地は黒瀬村(現賀茂郡黒瀬町)に属していたと推定される。
内海村
うちうみむら
面積:一九・七九平方キロ
東は観音岳(七八二メートル)から西は宇和海に細長く延びる由良半島の突端由良岬に及ぶ東西に細長い地域。同半島南部の内海に面する地域と、観音岳の麓の西に内海を望む地域からなる農漁村で、平地は少ない。中心集落は柏で、海岸部を南北に国道五六号が走っている。
かつては鰹・鮪漁を中心としていたが、近年では鰯漁・真珠養殖が盛んである。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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