初田村(読み)はつだむら

日本歴史地名大系 「初田村」の解説

初田村
はつだむら

[現在地名]篠山市初田

うし村の北東に位置し、西に音羽おとわ山がある。犬飼いぬかい村から分立したという。永禄七年(一五六四)一〇月一〇日の栗栖野信政等連署寄進状(高仙寺文書)に初田菊夜叉丸とみえる。正保郷帳に初田村とみえ、田高一七五石余・畠高二六石。元禄郷帳には記載がない。「丹波志」に酒井さかい庄のうちとして「初田」とみえ、犬飼村の出戸と記され、高二三三石余。明和八年(一七七一)の篠山全藩一揆では百姓の権左衛門が三〇日手鎖で、庄屋肝煎は役儀取上げのうえ過料銭に処されている(安永三年「多紀郡中強訴一件仕置相伺候書付案」小林家文書)

初田村
はつたむら

[現在地名]いわき市渡辺町わたなべまち田部たなべ

浜街道に沿い、南に隣接する渡部わたなべ村とともに宿場を形成し、両村を合せて新田しんでん宿ともよばれた。東はぼら村、北は昼野ひるの村、西は松小屋まつごや村。菊多きくた郡に属した。近世領主変遷は磐城平藩領から寛永一一年(一六三四)以降泉藩領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録に初田村椿村とみえ、高三〇一石余。

初田村
はつたむら

[現在地名]柿崎町岩野いわの

西は上小野かみおの村、東は岩野村、南は柿崎川を挟んで高畑たかばたけ村と接する。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「柿崎分初田村 下」とみえ、本納一七石五升五勺五才・縄高二八石六斗五升七合、家五軒・一六人とある。正保国絵図に高四〇石余とある。天和三年(一六八三)検地帳(国立史料館蔵)によれば、高六五石二斗余、田方が上田二町七畝余・中田七反九畝余・下田一町五畝余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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