プロ野球選手(投手:右投右打)、監督。10月1日、兵庫県生まれ。滝川中(現、滝川高)では2年連続で選抜大会に出場した。1941年(昭和16)の大会では準々決勝の岐阜商戦でサヨナラ負けを喫したが、9回攻撃中に走塁で左腕を骨折したにもかかわらず、左腕を包帯で吊(つ)って延長12回途中まで投げ続けた話はよく知られている。日本大学を中退後、1942年に南海(のち南海ホークス、現、福岡ソフトバンクホークス)へ入団。181センチメートルの長身から繰り出す豪球を武器に、翌1943年にはノーヒットノーランを達成した。1947年は最多勝利と最多奪三振の二冠王となり、沢村賞の第一号受賞者となる栄誉に浴した。1949年に読売ジャイアンツ(巨人)へ移籍、1960年に引退するまで20勝以上を6回記録、最多勝利の1952年と1956年はいずれも最高殊勲選手(現、最優秀選手)に選ばれた。また、最優秀防御率投手となった1955年には2回目の沢村賞も受賞した。歴代5位の通算310勝をあげ、1947年に記録した年間47完投はプロ野球記録(2015年時点)であり、その間故障らしい故障はまったくなく、タフネスぶりを発揮した。1968年から1970年までサンケイアトムズ(1970年はヤクルトアトムズ、現、東京ヤクルトスワローズ)の監督を務めた。
[出村義和 2016年9月16日]
選手としての実働17年間の通算成績は、登板試合662、投球回4350と3分の2、310勝178敗、防御率2.18、奪三振1934、完投335、完封72。獲得したおもなタイトルは、最多勝利3回、最高勝率1回、最優秀防御率1回、最多奪三振1回、最高殊勲選手(現、最優秀選手)2回、沢村賞2回、ベストナイン6回。監督としての通算成績(3年)は、342試合、143勝190敗9分け、勝率4割2分9厘。1979年(昭和54)野球殿堂(野球殿堂博物館)入り。
[編集部 2016年9月16日]
『別所毅彦著『剛球唸る!』(1989・ベースボール・マガジン社)』
昭和期のプロ野球選手,野球評論家
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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