前沢村(読み)まえさわむら

日本歴史地名大系 「前沢村」の解説

前沢村
まえさわむら

[現在地名]前沢町 北前沢きたまえさわ三日町みつかまち七日町なのかまち新町しんまち二十人町にじゆうにんまち五十人町ごじゆうにんまち谷起やぎ山下やました塔ヶ崎とうがさき本杉もとすぎ大桜おおざくら養ヶ森ようがもり平小路たいらこうじ町切ちようぎり下小路しもこうじ簾森みすもり城内じようない駅通りえきどおり上野原うわのはら輔八坂すけはちざか日除松ひよけまつ立石たていし田町たまち有隣ゆうりん弥栄いやさか天神てんじん

現前沢町の市街地一帯を占めていた村で、北はせき村、東は目呂木もくろぎ村、南は白鳥しろとり村、西は小山おやま村。奥州街道が通りその宿場町であるとともに、伊達家臣が当地に所を拝領して在住、その家中屋敷地もあった。町場三町と領主居屋敷・家中屋敷などの拝領地は村扱いとは異なり、領主の管轄下にあった。「安永風土記」は当村の小名として南前沢・北前沢・小前沢こまえさわをあげるが、文永九年(一二七二)六月二三日の関東下知状(中尊寺文書)みかじり(現金ヶ崎町)とともに小前沢がみえ、両所ともに中尊寺白山宮領とある。建武元年(一三三四)八月日の中尊寺大衆訴状案(同文書)によると「尻小前沢両村」は、源頼義・義家が安倍頼時・貞任父子討伐を白山宮に祈願して寄進したものという。小前沢は現在の前沢の町並の三日町橋から五十人町の曲り角までの一画であった。「正法年譜住山記」永和二年(一三七六)条に「下伊沢舞沢郷之内椙崎田千苅道於之寄進」とあり、この「舞沢郷」は前沢郷のことと思われる。当地の柏山家蔵の柏山伊勢守系図(慶長三年記)によると文治五年(一一八九)の奥州合戦後、胆沢地方が葛西氏統治下に置かれると、その家臣柏山氏が支配、柏山家臣三田将監が前沢城に入ったという。


前沢村
まえさわむら

[現在地名]東久留米市前沢・南町みなみちよう一―四丁目・中央町ちゆうおうちよう一―六丁目・幸町さいわいちよう一―五丁目・八幡町はちまんちよう一―三丁目・滝山たきやま一丁目・同四―七丁目

南沢みなみさわ村の西に位置し、西は下里しもさと村、南は北野中きたのなか新田(現小平市)、北は上清戸かみきよと(現清瀬市)。東西に所沢街道(秩父道)が通る。天正一一年(一五八三)八月二八日の北条家伝馬手形(設楽己知氏所蔵文書)にみえる前沢は当地とも推測され、小田原間の伝馬手形が発給されている。同一九年当村のうち三〇石が浄牧じようぼく院に与えられた(寛文朱印留)。田園簿に村名がみえ、高一〇三石、すべて畑方で旗本米津領。以後同氏の知行が続くが、寛文六年(一六六六)米津田盛は大坂在番となり、一万五千石を領する大名となった。貞享元年(一六八四)田盛を継いだ政武は一万二千石を領し、埼玉郡久喜を居所として久喜藩が成立。


前沢村
まえざわむら

[現在地名]黒部市前沢

北は三日市みつかいち村、北東は山田新やまだしん村。寛永一六年(一六三九)富山藩領、万治三年(一六六〇)から加賀藩領。通称に前山まえやま中部ちゆうぶ下組しもぐみがある。黒瀬くろせ川の下流地帯は水掛りがよく、堆積土で肥沃なため水田耕作が容易である。この辺りは犬山いぬやま千軒ともいわれる集落のあった所で、大源たいげん寺や見徳けんとく寺があったといわれ、今も地名が残る。嘉暦二年(一三二七)黒部川や片貝かたかい川・布施ふせ川・たに川等に大洪水があり、泥流に人家・田畑が埋没した。また砂礫が海岸河口付近に堆積したため、石野いしの村付近一帯は湿田・沼田と化した。


前沢村
まえざわむら

[現在地名]益子町前沢

小貝こかい川支流のぐみ川流域の台地上にある。東は山本やまもと村、西は上山かみやま村。慶安郷帳に村名がみえ、田二八七石余・畑五八七石余・茶石二石余で幕府領。寛文五年(一六六五)伊予今治藩領となる。元禄一一年(一六九八)幕府領に復し、同一四年以降下総結城藩領。当村の広沢家は先祖書(広沢重賢文書)によれば結城氏に仕え、その麾下の久下田くげた(現二宮町)城主水谷蟠竜によって当村に屋敷を与えられ田野たの三ヵ村名主役に任命された。


前沢村
まえざわむら

[現在地名]舘岩村前沢

福渡ふくわた村の北西、舘岩川左岸にあり、南から前沢入まえざわいり川が流れ舘岩川に合する。集落は古くは現在よりも舘岩川近くにあったと伝え、付近に下タ村したむらという字名が残る。「会津風土記」に「前沢」とある。文化一五年(一八一八)の南山御蔵入領組村高帳では高三七石余。化政期の家数一三で、真宗高田派の前沢ぜんたく寺があった(新編会津風土記)。明治四年(一八七一)の家数一一(うち寺一)・人数四九(人員録)


前沢村
まえざわむら

[現在地名]御嵩町前沢

大久後おおくご村の南の起伏の少ない丘陵地帯にある。南は津橋つばし村。津橋川支流前沢川沿いに耕地がある。上之郷かみのごう一六ヵ村の一で、元禄郷帳に村名がみえ高一二二石余、尾張藩領。「濃州徇行記」では田七町八反余・畑一町九反余、山一四町一反余、山年貢一斗余を上納する。家数二三・人数一一二ほど、馬三。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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