日本大百科全書(ニッポニカ) 「久喜藩」の意味・わかりやすい解説
久喜藩
くきはん
武蔵(むさし)国久喜(埼玉県久喜市)に置かれた大名。久喜藩は1684年(貞享1)米津伊勢守政武(よねきついせのかみまさたけ)が父田盛(たもり)の遺領であった武蔵国都筑(つづき)郡、下総(しもうさ)国印旛(いんば)郡、上総(かずさ)国埴生(はぶ)郡・香取(かとり)郡、摂津(せっつ)国および河内(かわち)国の1万2000石を継いだのち、封地を武蔵国埼玉(さきたま)郡・多摩郡、上総国武射(むしゃ)郡・長柄(ながら)郡・山辺(やまべ)郡、下総国葛飾(かつしか)郡・印旛郡・千葉郡・結城(ゆうき)郡・豊田(とよだ)郡、常陸(ひたち)国真壁(まかべ)郡に領知替えとなり、久喜に陣屋を設けて成立した。政武は出羽守(でわのかみ)に改め寺社奉行(ぶぎょう)を勤めた。以後、継嗣は政矩(まさのり)・政容(まさよし)と続き、1729年(享保14)政容が大坂定番(じょうばん)となり、上総・下総・常陸国のうち3000石を河内国志紀(しき)・若江(わかえ)・大県(おおがた)の3郡に移された。その子政崇(まさたか)は1739年(元文4)河内国の領地を上総・下総・常陸3国の旧領に移され、のちに大番頭(おおばんがしら)より大坂の定番に転じた。その後、通政(みちまさ)が1767年(明和4)に継ぎ、98年(寛政10)武蔵国の所領6400石余を出羽(でわ)国村山郡に移され長瀞(ながとろ)(山形県東根(ひがしね)市)に陣屋を移したので(長瀞藩、1万1000石)、久喜藩は消滅した。陣屋跡は、現久喜市役所付近にあり、明治まで空堀が残存していた。
[大舘右喜]