日本大百科全書(ニッポニカ) 「前田愛」の意味・わかりやすい解説
前田愛
まえだあい
(1931―1987)
日本文学研究者。本名愛(よしみ)。神奈川県生まれ。1957年(昭和32)に東京大学文学部を卒業、同大大学院人文科学研究科に進む。スタンフォード大学日本研究センター(1962~63)、成蹊大学文学部(1966~70)などに講師として勤め、70年に立教大学文学部日本文学科に助教授として就任(75年より教授)。近世文学、近代文学において、独創的な業績が多数あり、多くの研究者に影響を与えた。東京大学進学後、為永春水研究に着手していた当時から、前田は近世から近代へと移行する時期の文学に断絶を見るのではなく、「文学社会」における読者の連続性について考察しようとしていた。そうした意識のもとで、幕末・明治初期文学に関して発表されてきた論考をまとめて刊行されたのが『幕末・維新期の文学』(1972)であり、読書の形態や読者層について歴史的に考察した著述は『近代読者の成立』(1973)に収録された。「音読から黙読へ」読者の享受方式が変容したことに着意する前田の読者論は、メディア論、コミュニケーション論、身体論を内在させたものであり、すなわち『近代読者の成立』は、読書と読者のありようを社会学的に検証した画期的書物であった。
また、1960年代後半から、前田は樋口一葉に関する研究に意欲的に取り組み、晩年にいたるまで数多くの論考を叙述している。『たけくらべ』をめぐる論文「子供たちの時間」など、60~70年代の一葉研究が収録された『樋口一葉の世界』(1978)のあとがきには、「作品の言葉を同時代の習俗や言葉の世界に解き放ち、そこから作品のなかに隠されているコンテクストを掘りおこして行くという方法」が採られたことが記されている。こうした方法意識は、のちの都市小説論に連なるものであるが、その集大成は、文学テクストに現れた言説の細部と、都市空間の構成要素とを交錯させ、身体が息づいた空間としての都市と文学とを逢着(ほうちゃく)させた『都市空間のなかの文学』(1982)である(83年芸術選奨文部大臣賞、日本地名研究所風土研究賞を受賞)。ここにおいて、前田の分析対象は、もはや文学的な言語領域にとどまるものではなく、ある時期の言説状況の検証から、その時代の文脈そのものを可視化してゆくという作業は、歴史学や社会学、文学などの境界領域を切り開こうとする意志に通じていた。
晩年の問題意識は、遺作となった『文学テクスト入門』(1988)からうかがい知ることができる。文体に異同があり、内容も重複する状態で残されていたという同書の原稿の中心はプロット論であり、前田は、物語を限りなく要約した際に析出されてくる「ミニマル・ストーリイ」(最小の物語)に注目して、それを読み手の読書意識との相互関係においてとらえようとしている。こうした独得の理論体系は、ストーリーとプロットの二元論を超える可能性を孕(はら)んだものだといわれている。
ほかに『成島柳北』(1976。亀井勝一郎賞受賞)、『鎖国世界の映像』(1976)、『幻景の明治』(1978)、『近代日本の文学空間』(1983)などの著作、編著としては『全集 樋口一葉』(1979)、『日本近代思想大系 16』(1989)などがある。文化記号論、身体論、テクスト論など、知的潮流をいち早く汲み取り、近代文学研究の方法論を多方向に拓いた。
[内藤千珠子]
『『幕末・維新期の文学』(1972・法政大学出版局)』▽『『成島柳北』(1976・朝日新聞社)』▽『『鎖国世界の映像』(1976・毎日新聞社)』▽『『幻景の明治』(1978・朝日新聞社)』▽『『近代日本の文学空間』(1983・新曜社)』▽『『前田愛著作集』全6巻(1989~90・筑摩書房)』▽『『樋口一葉の世界』(平凡社ライブラリー)』▽『『近代読者の成立』(岩波現代文庫)』▽『『都市空間のなかの文学』『文学テクスト入門』(ちくま学芸文庫)』▽『前田愛編『全集 樋口一葉』(1979・小学館)』▽『加藤周一・前田愛校注『日本近代思想大系 16』(1989・岩波書店)』▽『石原千秋ほか著『読むための理論』(1992・世織書房)』▽『小森陽一著『小説と批評』(1999・世織書房)』