日本大百科全書(ニッポニカ) 「劇団東童」の意味・わかりやすい解説
劇団東童
げきだんとうどう
劇団名。子供会活動から出発し、1928年(昭和3)詩人・劇作家・演出家の宮津博(ひろし)(1911―98)を中心にひまわり会の名称で第1回公演を行った。後に虹(にじ)の国、29年には東京童話劇協会と改称。同年の第5回公演から東京童話劇協会の略称である東童をプログラムに使用し始めた。59年の第103回公演で本公演を終了し、地方公演などの活動を続けていたが、現在は活動していない。
「大人と子どもの共存する舞台」という一つの演劇ジャンルを開拓、確立し、大泉滉(あきら)(1925―98)などのすぐれた少年少女俳優を輩出した。日本の児童青少年演劇史のなかで、とくに昭和前期の活動には特筆すべきものがある。築地小劇場(1940年「国民新劇場」と改称)を中心に公演を行ってきたが、1941年に東宝資本と提携し、有楽座・帝国劇場・日本劇場などに進出。大人の劇団が弾圧で潰滅(かいめつ)状態になった41~42年には、薄田研二(すすきだけんじ)、加藤嘉(よし)(1913―88)などの新劇人が多数出演し、演劇レベルが向上するとともに東童の公演に多くの注目が集まる時代を創出した。『青い鳥』『ピーター・パン』『ドン・キホーテ』などの世界名作や、当時あまり知られることのなかった宮沢賢治作品をいちはやくとりあげ、『風の又三郎』などの名舞台をつくった。そのほか、『お化けの世界』『君たちはどう生きるか』『野鴨(のがも)は野鴨』などはとくに高い評価を得た。
[石坂慎二]
『『落合聰三郎著作全集1 聞き語り・少年演劇の歩み』(2000・晩成書房)』