宮沢賢治(読み)ミヤザワケンジ

デジタル大辞泉 「宮沢賢治」の意味・読み・例文・類語

みやざわ‐けんじ〔みやざはケンヂ〕【宮沢賢治】

[1896~1933]詩人・童話作家。岩手の生まれ。法華経に傾倒し、農学校教師・農業技師として農民生活の向上に尽くすかたわら、東北地方の自然と生活を題材に、詩や童話を書いた。詩集「春と修羅」、童話「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」など。

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共同通信ニュース用語解説 「宮沢賢治」の解説

宮沢賢治

岩手県花巻市生まれ。旧制盛岡中学から旧制盛岡高等農林学校に進み、短歌や散文創作をした。農学校の教師を務めた後、開墾生活の傍ら農業技術を指導し、農民の生活向上に尽力。生前刊行されたのは詩集「春と修羅」と童話集「注文の多い料理店」だけで、没後に評価が高まった。代表的な詩に「雨ニモマケズ」、童話に「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」「グスコーブドリの伝記」など。

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精選版 日本国語大辞典 「宮沢賢治」の意味・読み・例文・類語

みやざわ‐けんじ【宮沢賢治】

  1. 詩人、童話作家。岩手県出身。盛岡高等農学校卒。農業研究家・農業指導者として活躍するかたわら、宗教心科学精神に裏づけられた独特な詩や童話を創作。死後、谷川徹三らにより世に出されて名声を得た。詩「雨ニモマケズ」は特に有名。詩集に「春と修羅」、童話に「注文の多い料理店」「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」など。明治二九~昭和八年(一八九六‐一九三三

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「宮沢賢治」の意味・わかりやすい解説

宮沢賢治
みやざわけんじ
(1896―1933)

詩人、童話作家、農芸化学者。農村指導者、宗教思想家。明治29年8月27日岩手県稗貫(ひえぬき)郡花巻町(現、花巻市)に、父政次郎(まさじろう)(1874―1957。質・古着商)、母イチ(1877―1963)の長男として生まれ、父祖伝来の濃密な仏教信仰のなかで育った。少年時代から植物採集やとくに鉱物採集に熱中、「石コ賢さん」とよばれる。盛岡中学校に入学、2年のころから短歌制作を開始。しだいに学業等閑視、山野跋渉(ばっしょう)や、哲学書、宗教書を耽読(たんどく)するようになった。5年のとき寮監排斥運動に加担したとして退寮させられたころから急速に成績低下するが、これには家業を継ぐことへの嫌忌なども影響していた。1914年(大正3)盛岡中学を卒業、肥厚性鼻炎手術のため入院。看護婦に恋をするが、この初恋は実ることなく終わる。この秋、島地大等(しまじたいとう)編『漢和対照 妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)』を読んで激しく感動、父から進学許可を得て心機一転受験勉強に励み、翌1915年盛岡高等農林学校農学科第二部に首席入学。高農在学中は片山正夫『化学本論』を座右の書として勉学に励む一方、短歌にも新境地を開き、学内同人誌『アザリア』や『校友会会報』に連作短歌や詩的散文を次々に発表した。

 1918年、得業論文「腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値」を提出して卒業。さらに研究生として稗貫郡土性調査に従事するが、このとき肋膜炎(ろくまくえん)にかかる。この夏、『蜘蛛(くも)となめくじと狸(たぬき)』『双子(ふたご)の星』などの童話を書き始めた。1920年、田中智学(たなかちがく)の国柱会(こくちゅうかい)に入会、父にも改宗を迫るがいれられず、翌1921年1月に突如無断上京、本郷菊坂町に下宿して筆耕をしながら、布教活動等に加わり、夜は猛然と童話を多作した。しかし夏、妹病気の報に帰郷、12月から稗貫農学校(のち花巻農学校)教諭となり、以後4年余、教壇に立つ。この間、口語詩の制作を開始、地元の新聞や同人誌に詩や童話を発表し始める。1924年に詩集『春と修羅(しゅら)』、童話集『注文の多い料理店』を刊行。また、農学校生徒を指揮して自作の劇『飢餓陣営(きがじんえい)』ほかを毎年のように上演した。1926年3月で農学校を退職、下根子桜(しもねこさくら)に独居自炊して開墾、青年たちを集めて羅須地人協会(らすちじんきょうかい)をつくり、農芸化学や農民芸術論を講じたり、レコード鑑賞、合奏練習などの文化活動を開始したりするが、官憲に目をつけられ、賢治自身の病気などのために活動は挫折(ざせつ)。1931年(昭和6)ごろやや病状回復、東北砕石工場技師となって石灰の宣伝販売に奔走するが、無理がたたってふたたび病床の身となり、昭和8年9月21日に病死した。

 晩年は詩や童話の旧作推敲(すいこう)、改稿改作に没頭、多くの文語詩を制作・清書した。没後1年で早くも三巻本の『宮沢賢治全集』(1934~1935・文圃堂(ぶんぽどう))が刊行され、実弟の清六(1904―2001)、詩人の草野心平、高村光太郎らの尽力もあって、宮沢賢治の人と作品は急速に世に知られるようになった。童話では『風の又三郎』『銀河鉄道の夜』、詩では『永訣(えいけつ)の朝』、メモ『雨ニモマケズ』などが著名である。花巻市に宮沢賢治記念館がある。

[天沢退二郎 2018年6月19日]

『『校本宮沢賢治全集』全14巻(1973~1977・筑摩書房)』『『新潮日本文学アルバム 宮沢賢治』(1984・新潮社)』『『新校本宮沢賢治全集』16巻・別巻1(1995~2009・筑摩書房)』『『宮沢賢治全集』全10巻(ちくま文庫)』『中村稔著『宮沢賢治』(1972・筑摩書房)』『斎藤文一著『宮沢賢治とその展開』(1977・国文社)』『天沢退二郎著『宮沢賢治の彼方へ』(1977/新増補改訂版・1987・思潮社/ちくま学芸文庫)』『小沢俊郎著『宮沢賢治論集』全3巻(1987・有精堂出版)』『恩田逸夫著『宮沢賢治論』全3巻(1991・東京書籍)』


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改訂新版 世界大百科事典 「宮沢賢治」の意味・わかりやすい解説

宮沢賢治 (みやざわけんじ)
生没年:1896-1933(明治29-昭和8)

詩人,童話作家,農芸科学者,宗教思想家。岩手県稗貫(ひえぬき)郡花巻町(現,花巻市)の質古着商の長男として生まれ,浄土真宗の濃密な信仰の中で育つ。幼少年時から鉱物採集などに熱中した。盛岡中学2年のころから短歌を制作。1914年中学卒業,この年島地大等編《漢和対照妙法蓮華経》を読んで感動,終生熱烈な法華信者となる。15年盛岡高等農林学校農学科に入学。片山正夫《化学本論》を読み,物質観の基礎を与えられ,座右の書となる。20年ころから特に田中智学に傾倒,田中の主宰する国柱会に入会,父親にも日蓮宗への改宗を迫るが容れられず,21年1月無断出京,自活しつつ童話制作や布教活動に従事するが,8月に帰郷,この年の12月から26年3月まで花巻農学校教諭。この間,1922年1月から口語詩制作がはじまり,詩集《春と修羅》(1924),童話集《注文の多い料理店》(1924)を自費刊行。前者は辻潤,佐藤惣之助らに激賞された。26年3月で農学校退職後,別宅に自炊独居して羅須地人協会を設立,若い農民たちに農学や芸術論を講義,また無料で肥料設計を行うなど献身的活動に入るが,治安当局の疑惑を招き,また賢治自身の健康状態の悪化により挫折する。31年に奇跡的に一時回復して東北砕石工場技師として活動した以外,晩年のほとんどを病床で送り,自作の改稿改作,文語詩制作などに没頭した。33年9月21日死去。その膨大な詩と童話は,みずみずしい言語感覚,奔放な想像力,自然との交感に裏打ちされた豊かな表現と構成,普遍的な幻想性とリアルな地方性の並存する多彩さ,文明への深い洞察等により,次第に多くの読者を獲得し,またその生前の質実で献身的な人柄と活動ぶりは死後も多くの讃仰の対象となり聖人化の傾向さえ生んだ。童話の代表作に《銀河鉄道の夜》《風の又三郎》《セロ弾きのゴーシュ》などがあり,1931年11月3日に手帳に記した独白《雨ニモマケズ》は有名。
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20世紀日本人名事典 「宮沢賢治」の解説

宮沢 賢治
ミヤザワ ケンジ

大正・昭和期の詩人,童話作家



生年
明治29(1896)年8月27日

没年
昭和8(1933)年9月21日

出生地
岩手県稗貫郡花巻町(現・花巻市豊沢町)

学歴〔年〕
盛岡高農(現・岩手大学農学部)〔大正7年〕卒

経歴
花巻の質古着商の長男として生まれ、浄土真宗の信仰の中に育つ。幼少から鉱物採集に熱中。盛岡高等農林学校在学中法華経を読み、熱心な日蓮宗信者となる。大正10年父に日蓮宗への改宗を勧めるが、聞きいれられず、家出して上京。日蓮宗伝導に携わる傍ら、詩や童話を創作。しかし、半年ほどで妹の発病のため帰郷。以後、4年間花巻農学校教諭を務める。13年詩集「春と修羅」、童話集「注文の多い料理店」を自費出版。15年羅須地人協会を設立し、若い農民に農学や芸術論を講義。のち治安当局の疑惑を招き、また自身の健康状態の悪化により頓挫。昭和6年頃一時回復し、東北砕石工場技師を務めるが、晩年のほとんどを病床で送った。多くの童話、詩、短歌、評論を残したが、ほとんど認められることなく37歳で夭折。没後、人間愛、科学的な宇宙感覚にあふれた独自の作風で、次第に多くの読者を獲得した。6年11月の手帳に記された「雨ニモマケズ」は有名。他の童話集に「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」「セロ弾きのゴーシュ」「オツベルと象」「どんぐりと山猫」「よだかの星」「グスコーブドリの伝記」などがあり、「校本宮沢賢治全集」(筑摩書房)、「新修宮沢賢治全集」も刊行されている。昭和57年花巻市に宮沢賢治記念館が設立され、平成2年9月詩人・天沢退二郎らにより宮沢賢治学会が創設された。

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百科事典マイペディア 「宮沢賢治」の意味・わかりやすい解説

宮沢賢治【みやざわけんじ】

詩人,童話作家,農芸科学者。岩手県花巻生れ。日蓮宗を信仰,郷里の花巻農学校教諭となり,1924年詩集《春と修羅》,童話集《注文の多い料理店》を自費で出し,辻潤佐藤惣之助らに激賞されたが,一般にはほとんど知られなかった。農学校退職後は農事指導に献身,農民に対する深い愛情と,日蓮宗の信仰に基づく深い宇宙観に貫かれた浪漫的な作品を書いた。詩《雨ニモマケズ》,童話《風の又三郎》《銀河鉄道の夜》《グスコーブドリの伝記》,芸術論《農民芸術概論綱要》など。全集がある。
→関連項目花巻[市]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宮沢賢治」の意味・わかりやすい解説

宮沢賢治
みやざわけんじ

[生]1896.8.27. 岩手,花巻
[没]1933.9.21. 花巻
詩人,児童文学者。 1918年盛岡高等農林学校卒業。家業に従事中,日蓮宗の熱心な信者となり,布教のため上京,『どんぐりと山猫』 (1921) ,『かしはばやしの夜』 (21) など童話数編を書いた。しかし発表の機会がないまま帰郷して 24年童話集『注文の多い料理店』および詩集『春と修羅』を自費出版。凶作と不況にあえぐ農民に稲作指導をしつつ天衣無縫の詩才を育てたが病弱のため夭折。没後,草野心平に発掘され,その豊かな空想性とユーモア,宗教性,土着性,科学精神などの交錯する世界が注目を浴びた。ほかに童話『銀河鉄道の夜』 (27頃) ,『グスコーブドリの伝記』 (32) ,詩『雨ニモマケズ』 (31) など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「宮沢賢治」の解説

宮沢賢治
みやざわけんじ

1896.8.27~1933.9.21

大正・昭和前期の詩人・児童文学者。岩手県出身。裕福な質屋の長男に生まれ,盛岡高等農林に学んだ。在学中から日蓮宗の熱烈な信者となり,真宗信者の父母にも改宗を迫ったが拒絶され,1921年(大正10)上京して自活。布教に従事し,童話の創作にも励んだが,妹トシの病気により帰郷。稗貫(ひえぬき)農学校教諭となる。24年「春と修羅(しゅら)」「注文の多い料理店」を刊行したが反響はなかった。26年(昭和元)に農学校退職。羅須地人(らすちじん)協会を設立し,農民に献身する生活を送ったが,28年病に倒れた。「雨ニモマケズ」は病床で手帳に書いた晩年の理想像である。「銀河鉄道の夜」も死後未定稿のまま発見された。「宮沢賢治全集」全16巻,別巻1巻。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宮沢賢治」の解説

宮沢賢治 みやざわ-けんじ

1896-1933 大正-昭和時代前期の詩人,童話作家。
明治29年8月27日生まれ。大正10年稗貫(ひえぬき)農学校(12年花巻農学校に改称)教諭となる。13年詩集「春と修羅」,童話集「注文の多い料理店」を自費出版。15年花巻市郊外で開墾自炊生活にはいり,羅須地人(らすちじん)協会を設立して農民指導に献身した。昭和8年9月21日死去。38歳。岩手県出身。盛岡高農卒。作品はほかに「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」など。
【格言など】風とゆききし雲からエネルギーをとれ(「農民芸術概論綱要」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「宮沢賢治」の解説

宮沢賢治
みやざわけんじ

1896〜1933
大正・昭和期の詩人・童話作家
岩手県の生まれ。盛岡高等農林学校卒。農民指導に献身するかたわら,宇宙感覚をもつ,宗教と自然科学とのまじりあう想像力豊かな詩・童話を多数著したが,その作品は生前ほとんど認められなかった。代表作に詩集『春と修羅』,童話『風の又三郎』など。

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367日誕生日大事典 「宮沢賢治」の解説

宮沢 賢治 (みやざわ けんじ)

生年月日:1896年8月27日
大正時代;昭和時代の詩人;童話作家。「注文の多い料理店」「銀河鉄道の夜」など
1933年没

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世界大百科事典(旧版)内の宮沢賢治の言及

【銀河鉄道の夜】より

宮沢賢治の少年小説。生前未発表。…

【幻想文学】より

…ほぼ同じ1920年代,シュルレアリスムとは無関係に,東欧のドイツ語圏で役人生活のかたわらローカルな作家活動を営んでいたカフカの作品群は,単に幻想文学の枠内にとらえることはできないが,長編《城》《審判》,短編《変身》《巣穴》などに見られる幻想性は,現代の不条理の核心に深くかかわるものとして全世界的に翻訳・流布され,現代文学に広範な影響を与えるとともに,幻想文学の別格的巨匠と見なされるにいたった。一方,やはり20年代に日本の東北地方で創作活動を営んだ宮沢賢治は,〈新たな神秘主義はつねに起こるであろう〉と喝破し,自ら自然科学者としての透徹した認識と,非凡な宗教的資質による法華経的世界観を基盤に,《銀河鉄道の夜》をはじめとする多くの童話と詩編を残した。これらの作品は欧米にはようやく知られ始めているにすぎないが,きわめて高度な幻想文学の逸品として,世界的な次元での根源性と独創性を備えているといって過言ではない。…

【国柱会】より

…日蓮主義にもとづく国家建設の主張は各地にひろまり,1914年立正安国会を中心に,門下の信仰団体を統一して国柱会が創設された。田中は高弟山川智応らとともに文筆,講演など多彩な活動を展開し,石原莞爾,宮沢賢治らが入会,会員は急速に増加した。その後田中は政治的な運動に傾き,国柱会も日蓮主義と〈国体主義〉を唱える国家主義的な運動に傾いた。…

【児童文学】より

…これは,回想的・私小説的方法とともに,児童文学から物語性に富んだおもしろさをうばいとり,子どもを通俗文学のとりことして放置する結果を生んだ。その間にあって,宮沢賢治,新美南吉の童話は想像ゆたかな物語性で異色を放ち,また幼年童話における浜田広介は独特な調子で近代説話を語り,それぞれ戦中・戦後にわたって広範な読者をもった。 第2次世界大戦後,平和と民主主義という新しい価値観の到来とともに,《赤とんぼ》《銀河》《子供の広場》など文化的・進歩的な児童雑誌の創刊があいつぎ,一種熱っぽい状況のなかで,石井桃子《ノンちゃん雲に乗る》(1947),竹山道雄《ビルマの竪琴(たてごと)》(1948),壺井栄《二十四の瞳》(1952)など今日にも残る作品が生まれた。…

【春と修羅】より

宮沢賢治が生前刊行した唯一の詩集。1924年(大正13)4月,関根書店刊。…

※「宮沢賢治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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