ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
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(2007-01-18 朝日新聞 朝刊 朝刊文化)
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劇場および劇団名。1924年(大正13)6月に設立。ゴシック・ロマネスク様式を採用した定員468の急造バラックの小劇場は、現在の東京都中央区築地二丁目の東日本電信電話(株)のある所にあった。クッペル・ホリゾントをもつ舞台設備は、当時としては近代リアリズム戯曲を上演するのに最適の空間で、建築資金は伯爵土方与志(ひじかたよし)が提供した。新劇史上初の新劇常設劇場で、小劇場形式をとったのは、各国の近代演劇運動がすべてそうだったことによるが、当時盛んだった大劇場主義か小劇場主義かという議論に、一つの答えを示したものともいえる。おりから新劇は凋落(ちょうらく)期で、築地小劇場の創立は、ふたたび知識人を新劇に吸収する役目をしたが、一方では、同人として参加した土方の師小山内薫(おさないかおる)が当面翻訳劇しか上演しないといったことから、『演劇新潮』という雑誌に拠(よ)っていた多くの文学者が反築地の姿勢をとり、両者の反目は劇団解散時まで続いた。
創立時の同人は小山内、土方のほかに、俳優の友田恭助(きょうすけ)、汐見(しおみ)洋、効果・照明担当の和田精、経営の浅利鶴雄の6人で、演技部に東屋(あずまや)三郎、青山杉作、研究生として千田是也(これや)、丸山定夫、田村秋子、山本安英(やすえ)らがいた。青山はやがて演出をも受け持つが、演出という概念やその仕事が確立したのは築地小劇場によってであり、照明や効果といった舞台の部門が独立したのも築地小劇場からである。つまり新劇としてのシステムを系統だてたといってよく、築地出身の俳優や演出家が長く新劇を支えてきたということとあわせて、今日の新劇の母胎になった。ただし、第1回公演にマゾーの『休みの日』やチェーホフの『白鳥の歌』とともに表現派戯曲のゲーリングの『海戦』が上演されたというごとく、「演劇の実験室」とのうたい文句を配慮しても、レパートリーに一貫性を欠いたことは否定しがたく、また「民衆のための演劇」というモットーにもかかわらず、一部知識人や学生に劇場が占有された。1928年(昭和3)12月の小山内の急死を経て、翌年3月には思想的な混乱もあり土方らの新築地劇団と、残留の青山らによる劇団築地小劇場に分裂するまで、翻訳劇90、創作劇27編が上演された。なお劇場自体は、昭和初期に左翼演劇の拠点になったが、戦争体制の深化した40年11月に国民新劇場と改称、45年3月の空襲によって焼失した。
[大笹吉雄]
『水品春樹著『新劇去来』(1973・ダヴィッド社)』▽『菅井幸雄著『築地小劇場』(1974・未来社)』▽『大笹吉雄著『日本演劇史 大正・昭和初期篇』(1986・白水社)』
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…20年松竹キネマに入社,みずから主演した《路上の霊魂》を演出,芸術映画といわれるフィルムを作った。23年の関東大震災のあと,ドイツから帰ってきた演出家土方与志(ひじかたよし)とともに,廃虚と化していた東京築地に,〈演劇の実験室〉として〈築地小劇場〉を開場,もう一人の演出家青山杉作と3人が交代して,24年6月の《海戦》《休みの日》の第1回公演以降,俳優を育て,多くの西欧戯曲を紹介した。はじめ現代の日本戯曲に意欲がわかないので翻訳劇に専念すると宣言,当時の劇作家から激しく反発されたが,やがて《役の行者》を皮切りに創作劇も舞台にのせ,自作《国性爺合戦(こくせんやかつせん)》も上演している。…
…コメディ・フランセーズの建築様式を模した近代的な劇場である。日本における新劇の専門劇場は,関東大震災の翌24年に小山内薫・土方与志らによって創立された築地小劇場が最初である。舞台間口6間,高さ3間で,定員508席の小劇場であるが,クッペルホリゾントやプロンプター・ボックスを備え,わが国の新劇運動の歴史に大きな役割を果たした。…
…非商業的な近代劇運動の担い手である欧米劇団の影響を受けて,日本で近代劇運動を展開する新劇団の最初は,1909年に発足する後期〈文芸協会〉と〈自由劇場〉の活動である。しかし拠点劇場を持ち,名実ともに新劇活動を展開する劇団は,24年(大正13)に土方与志によって建設され,彼自身も演出家として活動した〈築地小劇場〉である。また築地小劇場によって,現在にいたる新劇団組織の基礎もつくられた。…
…その意味では1914年に始められた阪急電鉄の小林一三らによる宝塚少女歌劇も,21年ごろに全盛となった浅草オペラも,大正期の新劇的意欲の商業化ないしは普及化の表れといえよう。
[二つのリアリズム劇の成立]
関東大震災が社会相を一変させた後の,1924年6月,築地小劇場が開場する。そして新劇はこのあたりからいわば第2の段階に入るのである。…
…すなわち,福地桜痴作《舞扇恨之刃(まいおうぎうらみのやいば)》(V.サルドゥー原作《トスカ》,1891年歌舞伎上演)や尾崎紅葉作《夏小袖》(モリエール原作《守銭奴》,1897年新派上演)のように日本化されて歌舞伎や新派の脚光を浴びる翻案上演が進む一方で,森鷗外訳のG.E.レッシング戯曲(1892)や高安月郊訳のH.イプセン劇(1893)など,さまざまな西欧近代戯曲の翻訳も始まった。 原作に忠実な文学的翻訳戯曲の上演は明治40年代(1908‐12)に入ってからであり,文芸協会,自由劇場の新劇運動ではイプセン劇などの翻訳劇上演が主体となり,1924年の築地小劇場創立により名実ともに翻訳劇時代を確立するにいたった。つまり西欧近代の自然主義的写実劇の影響を強く受け,赤毛のかつらをつけた扮装,つけ鼻や顔の凹凸を強調する化粧,物言いや動作にいたるまで外国人らしさをまねる演技術を生み出し,日本独自の翻訳劇上演様式を創りだしたのである。…
※「築地小劇場」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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