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帝国劇場 ていこくげきじょう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

帝国劇場
ていこくげきじょう

東京都千代田区丸の内3丁目にある劇場。通称帝劇。 1911年3月開場。ルネサンス風のフランス様式を模した劇場で客席天井の和田英作の天女の油絵,プロセニアムの華麗な彫刻が有名であった。劇場の建坪約 2000m2。観客席は4階まですべて椅子席で,新しい劇場機構,観劇制度が評判を呼び,また専属女優制,帝劇オペラなど新機軸を打出して観客を集めた。 23年関東大震災で焼失し,復興後はそれまでの勢いを取戻せず,第2次世界大戦以後は帝劇ミュージカルの試みが目立つ程度で 64年に閉場。 66年同じ地に地上9階,地下6階で,定員 1831人の最新の舞台機構を誇る「新帝劇」が建設された。開場の年に世界で初めて舞台化された『風と共に去りぬ』を上演したのをはじめ,『屋根の上のバイオリン弾き』 (1967) ,『ラ・マンチャの男』 (69) ,『レ・ミゼラブル』 (87) ,『ミス・サイゴン』 (92) など独特の輸入ミュージカル路線を開いている。

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デジタル大辞泉の解説

ていこく‐げきじょう〔‐ゲキヂヤウ〕【帝国劇場】

東京都千代田区丸の内にある劇場。明治44年(1911)日本最初の純洋式劇場として開場。関東大震災で焼失したが、再建され、昭和41年(1966)東宝が新装改築。帝劇。

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百科事典マイペディアの解説

帝国劇場【ていこくげきじょう】

通称〈帝劇〉。1911年渋沢栄一ら財界人の出資で東京丸の内に建築された,日本最初の本格的洋風劇場。客席を椅子(いす)席にし,喫煙室・化粧室・食堂・売店を設けるなど,舞台機構とともに,従来の歌舞伎劇場とは異なった画期的なもの。
→関連項目東宝[株]

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デジタル大辞泉プラスの解説

帝国劇場

東京都千代田区にある劇場。1911年、日本初の洋式劇場として開館。現在の建物は1966年に落成された。座席数は約1900席。「帝劇」ともいう。

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世界大百科事典 第2版の解説

ていこくげきじょう【帝国劇場】

東京丸の内にある劇場で,通称〈帝劇〉。渋沢栄一ら財界人の出資で,横河民輔の設計・工事により建設,1911年3月開場した。ルネサンス風フランス式5階建て,1700の客席はすべて椅子席で,オーケストラ・ボックスをもつ日本最初の完全な洋式劇場であった。旧来の興行方法を廃し,場内での飲食を禁止,切符制度による1ヵ月単位の興行など,近代的な経営法をとった。6世尾上梅幸を座長格に,市川高麗蔵(のちの7世松本幸四郎),7世沢村宗十郎,4世尾上松助らを専属俳優とし,歌舞伎のほかに付属技芸学校出身の森律子らの女優劇も併演した。

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大辞林 第三版の解説

ていこくげきじょう【帝国劇場】

東京丸の内にある劇場。1911年(明治44)日本最初の近代的洋式劇場として創設。歌舞伎興行のかたわら付属技芸学校を設けて女優の養成、また海外の一流芸術家を招いての公演や初期の新劇上演を行うなど、日本の演劇発展に貢献。66年(昭和41)改築。帝劇。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

帝国劇場
ていこくげきじょう

劇場名。1911年(明治44)3月、皇居前にわが国初めてのヨーロッパ風劇場として開場。渋沢栄一を創立委員長に当時の財界人が出資、国立劇場的な性格をもつ劇場にするのが目的だった。設計・施工は横河民輔(たみすけ)。全階椅子(いす)席、ロビー、食堂、喫茶室を備え、全体はルネサンス様式で、江戸時代からの歌舞伎(かぶき)小屋のイメージを一新した。また興行方式にも新機軸を打ち出し、芝居茶屋制度を廃止、座席番号を決め、前売り方式を採用、案内係制度にするなど、近代的な興行制度を取り入れた。6世尾上(おのえ)梅幸、7世松本幸四郎が専属となり歌舞伎を上演する一方、翻訳劇や創作劇を並行して取り上げた。また帝国劇場付属技芸学校を設立、女優の養成に乗り出し、森律子(りつこ)、村田嘉久子(かくこ)らを送り出した。さらにイタリア人ローシーを招き歌劇部(のち洋劇部)を開設したり、大正期にはエルマン、クライスラー、パブロワら海外の一流音楽家、舞踊家を招くなど文化交流にも尽くした。関東大震災(1923)で焼失後再築され、一時は松竹が経営したが、40年(昭和15)以後、東宝傘下の劇場となった。その間、演劇興行を離れて、洋画の封切り館として親しまれたこともあり、大型映画シネラマの日本初公開(1955)もこの劇場であった。64年(昭和39)都市高層化の波で取り壊され、66年、敷地内(丸の内3丁目)のビルの中の劇場となった。客席は1~2階、客席数1917(ミュージカルなどの場合1844)。開場記念公演の『風と共に去りぬ』が6か月のロングランでヒットし、その後ミュージカルや大型娯楽劇を柱に東宝演劇の中心的劇場となっている。
 1990年代以降はミュージカル公演の比重が高まり、「屋根の上のヴァイオリン弾き」「マイ・フェア・レディ」「王様と私」「ラ・マンチャの男」などのブロードウェーの名作ミュージカルの上演を続けるとともに、「レ・ミゼラブル」「ミス・サイゴン」などのハイテクを駆使した大型ミュージカルも上演してきた。「レ・ミゼラブル」は1989年(平成1)の初演以来ほとんど毎年のように上演され、帝劇の看板公演になった。99年にはオリジナル・ミュージカル「ローマの休日」を上演、現在は年間公演の多数がミュージカル公演になった。[水落 潔]
『『帝劇の五十年』(1966・東宝株式会社) ▽嶺隆著『帝国劇場開幕 今日は帝劇明日は三越』(中公新書)』

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世界大百科事典内の帝国劇場の言及

【切符】より

…現在では入場券または乗車乗船券などを切符と呼んでいるが,第2次世界大戦およびその前後の物資統制時代には衣料品の配給を受けるための衣料切符などがあった。劇場や相撲場が芝居茶屋や相撲茶屋を介さずに直接入場券を売る切符制度を採用したのは,1911年3月に開場した東京の帝国劇場にはじまる。その切符は英語のticketをなまって〈テケツ〉と呼ばれ,やがて映画館や劇場の入口でそれにはさみを入れる女性たちをもテケツあるいはテケツ・ガールなどと呼んだ。…

【劇場】より

…こうして20世紀初頭までには,〈近代劇場〉はほぼ全世界の都市を制覇するにいたった。日本で最初の本格的な洋式劇場といわれる帝国劇場の建設は1911年のことである。 〈近代劇場〉の特徴は空間の等質性にある。…

【興行】より

…その後,1902年に松竹合名社(松竹株式会社の前身)が設立されて徐々に歌舞伎座や文楽座を手中に収めた。11年に帝国劇場(資本金120万円の株式会社)が誕生して,演劇興行が企業としてしだいに合理的に運営されるようになった。歌舞伎興行では,いわゆるレパートリー・システムが採用されていない。…

【バレエ】より

…これらはとくにアメリカで盛んであるが,それはバレエというより,ダンスの連続,ダンス組曲といったほうがふさわしい。
[日本におけるバレエ]
 日本におけるバレエは,1911年(明治44)帝国劇場の創設に始まるといえよう。帝劇では何か新しいものを上演したいと考え,歌劇部を創設した。…

【森律子】より

…弁護士森肇の娘で東京生れ。跡見女学校卒業後,1908年帝国劇場女優養成所に1期生として入所。11年帝国劇場開場時の山崎紫紅作《頼朝》の浦代姫で初舞台を飾った。…

※「帝国劇場」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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