薄田研二(読み)ススキダケンジ

デジタル大辞泉 「薄田研二」の意味・読み・例文・類語

すすきだ‐けんじ【薄田研二】

[1898~1972]新劇俳優。福岡の生まれ。本名高山徳右衛門。築地小劇場に入り、のち新築地劇団活躍。第二次大戦後、新協劇団などを経て東京芸術座結成

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精選版 日本国語大辞典 「薄田研二」の意味・読み・例文・類語

すすきだ‐けんじ【薄田研二】

  1. 俳優。本名高山徳右衛門。福岡県出身。築地小劇場に参加して認められ、第二次世界大戦後は中央芸術劇場(のち劇団中芸)を作り、社会主義演劇を実践。昭和三四年(一九五九)新協劇団と合同して東京芸術座を創立し、その指導者となる。映画出演も多い。明治三一~昭和四七年(一八九八‐一九七二

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「薄田研二」の解説

薄田 研二
ススキダ ケンジ


職業
俳優

本名
高山 徳右衛門

別名
幼名=高山 徳太郎

生年月日
明治31年 9月14日

出生地
福岡県 福岡市西新町

学歴
鹿島中

経歴
大正14年築地小劇場に入り、薄田研二として「どん底」で初舞台、「役の行者」などにも出演した。小山内薫死後の昭和4年丸山定夫、土方与志らと新築地劇団を結成、「西部戦線異状なし」などに主演。そのころ日本プロレタリア劇場同盟に加入し「土」の勘次など、左翼演劇の伝統の中で好評を得た。15年逮捕され新築地は解散。その後大映専属の映画俳優となり、17年丸山定夫と苦楽座を組織。戦後は東京芸術劇場、新協劇団、中央芸術劇場を経て、34年村山知義と東京芸術座を主宰した。共産党入党。またススキダ演技研究所後進を育てた。著書に「暗転―わが演劇自伝」など。

没年月日
昭和47年 5月26日 (1972年)

家族
妻=内田 礼子(女優)

伝記
脇役本―ふるほんに読むバイプレーヤーたち一女優の歩み―井上正夫・村山知義・薄田研二の時代 濱田 研吾 著内田 礼子 著(発行元 右文書院影書房 ’05’93発行)

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20世紀日本人名事典 「薄田研二」の解説

薄田 研二
ススキダ ケンジ

大正・昭和期の俳優



生年
明治31(1898)年9月14日

没年
昭和47(1972)年5月26日

出生地
福岡県福岡市西新町

本名
高山 徳右衛門

別名
幼名=高山 徳太郎

学歴〔年〕
鹿島中

経歴
大正14年築地小劇場に入り、薄田研二として「どん底」で初舞台、「役の行者」などにも出演した。小山内薫の死後の昭和4年丸山定夫、土方与志らと新築地劇団を結成、「西部戦線異状なし」などに主演。そのころ日本プロレタリア劇場同盟に加入し「土」の勘次など、左翼演劇の伝統の中で好評を得た。15年逮捕され新築地は解散。その後大映専属の映画俳優となり、17年丸山定夫と苦楽座を組織。戦後は東京芸術劇場、新協劇団、中央芸術劇場を経て、34年村山知義と東京芸術座を主宰した。共産党に入党。またススキダ演技研究所で後進を育てた。著書に「暗転―わが演劇自伝」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「薄田研二」の意味・わかりやすい解説

薄田研二 (すすきだけんじ)
生没年:1898-1972(明治31-昭和47)

新劇俳優。本名高山徳右衛門。出身地福岡で演劇活動ののち,1925年に築地小劇場に研究生として入り,翌26年1月には土方与志演出《ベニスの商人》のシャイロック役に抜擢された。同劇場解散後の29年,土方らと新築地劇団を結成,社会主義的な演劇活動を展開した。戦後は東京芸術劇場を経て第2次新協劇団に加わっていたが,51年8月劇団中央芸術劇場を結成し,その主宰者となった。そして59年再び村山知義ら新協劇団と手を結び,合同して東京芸術座を結成した。戦前・戦後を通じて社会主義的演劇活動に従事,晩年は69年にススキダ演技研究所を開き,俳優教育にも当たった。自伝《暗転》(1960)がある。映画出演も多数。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「薄田研二」の意味・わかりやすい解説

薄田研二
すすきだけんじ

[生]1898.9.14. 福岡
[没]1972.5.26. 東京
俳優。本名高山徳右衛門。 1925年築地小劇場の研究生となり,『役の行者』の一言主などで認められた。 29年,築地小劇場の分裂に際して土方与志らの新築地劇団の創立に参加,『西部戦線異状なし』『土』などに主演,同劇団の中心的存在となった。 40年に同劇団が強制解散させられてからは苦楽座に拠り,第2次世界大戦後は東京芸術劇場,第2次新協劇団へと移り,51年8月中央芸術劇場を組織。 59年再び新協と合同して東京芸術座を創立,一貫して社会主義演劇の側に立って活躍。また映画出演も多く,特に東映時代劇の悪役が知られる。自伝『暗転』 (1960) がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「薄田研二」の意味・わかりやすい解説

薄田研二
すすきだけんじ
(1898―1972)

新劇俳優。本名高山徳右衛門。福岡県生まれ。1925年(大正14)築地(つきじ)小劇場に入り、『役(えん)の行者』の一言主(ひとことぬし)で好評を博す。29年(昭和4)新築地劇団を結成、その中心的俳優として活躍。第二次世界大戦後、共産党に入党。東京芸術劇場、新協劇団、中央芸術劇場(のち劇団中芸)を経て村山知義(ともよし)と東京芸術座を主宰。戦中・戦後は映画俳優としても活躍した。彫りの深い風貌(ふうぼう)で個性的な俳優。自伝『暗転』(1960)がある。

[祖父江昭二]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「薄田研二」の解説

薄田研二 すすきだ-けんじ

1898-1972 大正-昭和時代の俳優。
明治31年9月14日生まれ。大正14年築地(つきじ)小劇場にはいる。昭和4年新築地劇団の創設に参加し,「土」などに主演。戦後,共産党に入党。中央芸術劇場などをへて,34年村山知義と東京芸術座を結成,主宰。映画にも出演。昭和47年5月26日死去。73歳。福岡県出身。本名は高山徳右衛門。著作に「暗転―わが演劇自伝」。

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367日誕生日大事典 「薄田研二」の解説

薄田 研二 (すすきだ けんじ)

生年月日:1898年9月14日
大正時代;昭和時代の俳優
1972年没

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世界大百科事典(旧版)内の薄田研二の言及

【新協劇団】より

… 第2次大戦後,村山が再建にのりだし,46年2月には再建第1回公演を持った。薄田(すすきだ)研二,八田元夫(1903‐76)のほか,新派の井上正夫も一時期これに参加した。しかし〈50年問題〉といわれる共産党の内部抗争の影響を受け,1951年薄田,岡田英次ら演技陣の大量脱退者が出るにおよんで弱体化し,59年に薄田らの中央芸術劇場と合体して東京芸術座となった。…

※「薄田研二」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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