日本歴史地名大系 「加知弥神社」の解説 加知弥神社かちみじんじや 鳥取県:気高郡鹿野町寺内村加知弥神社[現在地名]鹿野町寺内寺内(てらうち)集落の東方、主要地方道郡家(こおげ)―鹿野―気高線の西側にある。祭神は彦火火出見尊・鵜草葺不合尊・玉依姫の三神で(県神社誌)、「延喜式」神名帳記載の気多(けた)郡の同名社に比定される。かつては勝宿(かちしゆく)大明神と称されていた。旧県社。「因幡志」は創祀の伝承として次のような話を載せている。村上天皇の第六皇子勝美親王は気多郡領主紀氏郷の娘桜姫に恋慕、因幡国に下向したが、気多郡宿(しゆく)村(現気高町)に至ったとき病にかかった。親王の従者は氏郷にこのことを訴え、氏郷とその父氏常は親王を輦に乗せ、神越山を越えて野渓(やけい)山にたどり着いた。しかし親王は同所で力尽き、天延三年(九七五)没した。二年後の貞元二年(九七七)終焉の地に皇子を神として祀り、勝美の神社・勝宿宝聖宮などと称し、祭神を勝宿宝照権現とよんだというものである。「因幡志」の編者安陪恭庵も、もとよりこの説話を俚諺として退けている。元来、当社は現気高町宿の志加奴(しかぬ)神社(鹿野が旧社地であったとされる)や青谷(あおや)町絹見の幡井(きぬみのはたい)神社などとともに古代気多郡の有力な氏族(勝部氏といわれる)の氏神として祀られていたと思われる。さらに飯田(いいだ)の森とよばれる現在の境内地に移ったのは中世のことで、それ以前の社地は現社地背後、野渓山とよばれる西方の山の南端、明神(みようじん)ヶ鼻(はな)(明星鼻)あるいは宮谷(みやだに)の地であったと伝える。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by