日本歴史地名大系 「千手堂村」の解説 千手堂村せんじゆどうむら 千葉県:長生郡長南町千手堂村[現在地名]長南町千手堂長南宿の北東に位置し、一宮(いちのみや)川支流の三途(さんず)川が流れる。大多喜(おおたき)往還が通る。南部は東(ひがし)谷・高塚(たかつか)谷・榎(えのき)谷・大(おお)谷・小(こ)谷・糀(こうじ)ヶ谷・五反田(ごたんだ)谷・東奈(とうなん)谷などに分れる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高四七二石とあるが、千田(せんだ)村を含むか。寛永二年(一六二五)の知行宛行状にみえる「殖生郡千堂村」は当村と考えられ、村内一四四石余が旗本山下領。 千手堂村せんじゆどうむら 埼玉県:比企郡嵐山町千手堂村[現在地名]嵐山町千手堂槻(つき)川を挟み鎌形(かまがた)村の北に位置し、東は菅谷(すがや)村、西は遠山(とおやま)村、北は平沢(ひらさわ)村。松山(まつやま)領に属し、村内に千手観音堂があったことが地名の由来という(風土記稿)。現入間(いるま)市蓮花(れんげ)院の寛正二年(一四六一)一〇月一七日銘の鰐口に「奉施入武州比企郡千手堂鰐口大工越松本」「願主釜形四郎五郎」とみえる。田園簿では田高四二石余・畑高五〇石余、幕府領。寛文八年(一六六八)の田畑屋敷御検地帳(関根家文書)によると高一一二石余、反別は田五町一反余・畑二二町二反余・屋敷七反余。 千手堂村せんずどうむら 静岡県:磐田市千手堂村[現在地名]磐田市千手堂万正寺(まんしようじ)村の北にあり、東は上・下の岡田(おかだ)村。豊田(とよだ)郡に属する。正保郷帳に村名がみえ、高四九六石余、幕府領。うち田方四一二石余・畑方八二石余、千手堂(現千手寺)領二石。日損と注記される。元禄郷帳では高五〇五石余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領・浜松藩領・旗本北条領の三給。浜松藩領分は享保三年(一七一八)の川東三二ヵ村村調書上牒(古田家文書)によると高四三九石余、家数七六(本百姓七三・水呑百姓三)・人数三六九、うち大工六・木挽一〇、杣取・桶師・鍛冶各一。 千手堂村せんじゆどうむら 山形県:山形市旧東村山郡地区千手堂村[現在地名]山形市千手堂七浦(ななうら)村の北西に位置し、白(しら)川東岸平地に立地。村名は観音堂(吉祥院)に祀られる千手観音に由来するとされる。元和九年(一六二三)の検地帳(山形県史)によれば高四九一石余。反別田二一町七反余、畑・屋敷二町一反余。このうち案内の雅楽助と主計の二人が計二二町七反余の耕地を保有し、小作人に耕作させていた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by